●保坂さんの短編が今月の「群像」に掲載されていた(「地鳴き、小鳥みたいな」保坂和志)。中篇と書いてあるが、長めの短編、短めの中篇という感じ。保坂さんが独立した短編(中篇)を文芸誌に掲載するのはかなり珍しいことではないか。
確か、はじめてお会いした時か、二度目の時かに保坂さんから聞いた話。保坂和志の小説には性的なことが描かれていないと批判する人がいるけど、性的なことが描かれない小説はいくらでもあるのに、保坂さんの小説に対しことさら「性的なことが描かれていない」と思ったというのは、その人が小説を読んでいる時に性的なことを意識したからで、そのように意識させるものが小説のなかにあったということで、つまりそういう形で性的なことは描かれているんだ、と。
その時は『カンバセイション・ピース』が書かれた後だったけど、『カンバセイション・ピース』では、小説の中の出来事としては性的な事柄は描かれていないとしても、小説の基底にあってそれを生成する力というか、小説の語りが向かう指向性のたちあがりのような場に、性的なものが濃厚にある感じは強く出しているように感じられた。そして、『未明の闘争』では、その、指向性の立ち上がりであり、向かう先でもあるような性的な感触が、具体的な登場人物としても現れていた。「地鳴き、小鳥みたいな」では、そのような、語りをたちあげる、あらかじめ性的感触を含んだ指向性が、割と直接的に「あなた」という形であらわれているのではないかと思った。
保坂さんがリンチを好きなのは、この感じがちょっと似ているからなのかなあと思った。リンチもまた、直接的に性的なものや暴力を描くというより、リンチに様々なイメージを生成させているものが、性的なものや暴力への恐怖、裏切りへの不信などがあらかじめ入り交じっている指向性だ、ということではないか。性的なものは、対象にあるのでも、リンチの欲望としてあるのでもなくて、世界が立ち上がり、他者への関心が立ち上がると同時に、世界の基底を形作るものとして、既にそこの地に含まれてある、という感じ。
この「地鳴き…」で、土地、空間、風景への関心を起動させているものは、一方では過去であり、従兄へ向かっている指向性であり、もう一方で、同行した「あなた」への(性的な感触を含んだ)指向性であるように思われる(母方の実家周辺へ旅する話なのだが、「母」は直接的には最後までほとんど出てこない)。しかしそれははっきりと分離しているわけではなくて、未分化なまま混じっているように思われた。ただ、過去へ(従兄へ)と指向性が向かう時には、向こう(相手)から語り手を見返す視線はほぼ意識されていないけど、「あなた」へと向かう指向性には、「あなた」が「わたし」を見る視点が強く意識されているようにみえる。
「あなた」から「わたし」を見る視線が意識されることで、「わたし」が子供であることが許されるという感じもあるように思う。だとすると、「あなた」の視線によって「わたし」は過去へ(この土地へ)の入り口を得るのかもしれない。従兄への指向性によってたちあがる過去は、懐かしさや馴染んだ感じ以上に、ここにいるはずだったのにいなかったわたし(子供)を意識させる。大人になった「わたし」もまた、うまく「ここにいる」ことができないで、試行錯誤している。ここにいることと、ここにいることができないことの間の試行錯誤がこの小説ともいえるけど、その「わたし」と「土地」の間に「長崎さんと歩いている」みたいな関係を外から見いだしてくれるのが「あなた」だ、と。
ラストへ向かうクライマックスといえるところで保坂さんのヤンキー好きが炸裂しているのもおもしろい。
●久々に小説を読んだ感じがする。人の脳の複雑さがそのまま形になっているようで、日常的な時間の流れや頭の使い方では入っていけなくて、ぜんぜん別の時間の感覚や頭の使い方を強いられることで、強引に濃厚なところへもっていかれるこの感じ。