2023/07/09

⚫︎巣鴨で、保坂和志 「小説的思考塾 vol.12 対話篇 + 山下澄人」。山下さんの『おれに聞くの?』刊行記念。以下は、話されたことの要約や紹介ではなく、話を聞きながら考えたこと。

⚫︎まず、本題とはあまり関係ないAIの話をちょっとだけ。我々が使うことのできるChatGPTは、あくまで「誰もが使える民生用・業務用AI」で、だから、誰が、どのように使ったとしても危険がないように、とても強い抑制がかかっているはず。差別的なことを言ってはいけない、暴力的なことを肯定してはいけない、危険な情報(毒薬や爆弾の作り方など)を伝えてはいけない、極端に偏った意見を言ってはいけない、社会通念に反してはいけない、性的に刺激的なことは言ってはいけない、など。さらに最近では、著作権に関わる厳しい規制がかけられている気配もある。以前は、「村上春樹風の文体で」と頼めばそれらしい出力をしたが、そういうこともしてくれなくなった。だから当然、面白みのない優等生のような「性格」になる。

だけど、そのような抑制をかけられていない裸の状態のAIも存在するはずで、でもそれを「民衆」が使うことは許されず、使えるのは、AIを開発した企業か、または特権的な権力者に限られるだろう。AIで最もやばいのはそのような不平等(極端な不平等の発生)で、最も強力なAIを「使う権利を持つ者」が世界を一元的に支配できてしまう危険がある。将棋が強いとか、小説が書けるとかいうのは、AIの性能(の発展)を試すベンチマークのようなもので、重要な(深刻な)問題はそこではなくて、AIが人を支配するためのとても強力な(ほとんど抵抗が不可能である)ツールとなるという問題の方だと思う。

本当は、人類の幸せのためにはAIの研究などしない方がいいのかもしれないが、しかし、「誰か」が強力なAIを作ってしまうと、その人なり、その組織なりが一人勝ちで世界を支配してしまう可能性があるので、常にそれと対抗(拮抗)できるだけの別のAIがなければ力の均衡(権力の分立)が成立しない。だから、研究や開発をやめたくてもやめられない。これは、軍事力を抑制するためには別の軍事力がなければならないというのと同じ理屈で、AIは実質的に軍事力だ。しかし、AIによる支配は、武力による鎮圧のように見えやすいものではなくなる。

⚫︎保坂さんが、「作品の良し悪しを決めるのは(それを作っている)自分だ」という人にはAIが小説を書けるかとかいうことは問題にならないと言っていたが、ぼくもそれはその通りだと思う。例えば、Stable Diffusionが出てきた時、これでよほどの人でない限り職業的なイラストレーターであることは無理になるのではないかと思った。だかそれは、絵を描く人がいなくなるということではなく、絵を描いて生活できるだけの対価を得ることが困難になるということで、初めから「お金にならない絵」を描いている人にはあまり関係がない。

(だがこの流れには変化があって、ヨーロッパを中心に「人間の権利」をすごく大きく取って、そもそもAIに学習のためのデータを渡さないようにする力が強くなっており、そのため生成AIの発展は頭打ちになる可能性もある。)

このことは「プロ」という概念に変化を強いるのではないか。例えば、鈴木エイトが旧統一教会に関する取材を20年以上も続けられたのは、彼が職業的なジャーナリストではなかったからだろう。組織に所属せず、そして家賃収入があり、だからお金になる(原稿が売れる)見込みのほとんどない取材を自律的にずっと続けることができた。こういう(売れる・売れない、に依存しない)あり方こそが、本当はジャーナリストとして「プロ」なのではないか、というように。

⚫︎山下さんが、神戸の震災の後から携帯電話を使うようになって、その時に、ああ、これはもう盗撮とか盗聴とかを受け入れるしかない、自分の行動やプライバシーが外に漏れることから逃げられるわけがないと思った、と、つまり、外的な情報はすべて取られることを受け入れるしかない、しかし、それはそれで良くて、もう「自分の中で動くもの」だけが重要だということでいいのではないかと思った、という話をしていたのが印象に残った。自分の中で動いているものとは、「内面」ということではなく、内なのか外なのか表面なのかに関わらず「自分という場において起こっていること」というくらいのニュアンスでぼくは受け取った。で、その感じはすごく分かると思った。

(バイタルデータなども含めた)外的データが取られることに対して抵抗してもあまり意味がないのではないかという気持ちがぼくにはある。それが個人と紐づけられて圧政(弾圧)に利用されたりするのはちょっと困るが(そこには最低限のリベラリズムが必要だと思うが)、統計的に処理されることに対しては抵抗しても仕方ないのではないか。外的なデータとしては完全に管理されてもそれは別に良くて、ただ「今、ここで、動いているもの」だけを大切にして、それを手放さなければそれで十分ではないか(それしかないのではないか)とは思う。

『おれに聞くの?』はまだパラパラと読んだだけだが、そこでは繰り返し「この世界は荒野である」ことが強調されているように思った。荒野であることは明らかなのに、あたかも荒野ではなく、きちんとした整備された道や建物や規則があるかのように言いくるめて騙そうとしてくる奴がたくさんいるが、そういうのに騙されてはいけない、道なき道をウロウロし、時々底が抜けて穴に落ちるとかしているうちに死ぬだけだと知れば、「今、ここで動いているもの」こそが貴重だとわかるし、カフカベケットはそれを教えてくれる、と。

(ただ、山下さんとは違ってぼくには「永劫回帰」には抵抗したいという気持ちが強くある。キリスト教的な最後の審判みたいだが、いつか、どこかの時点で、苦痛と共にある全ての魂の「呪い」が解かれる瞬間があってほしい。)

保坂さんが、昔の棋士は「全人格的なもの」で戦っていたが、それが「盤上での操作」に縮減されてしまったということを言っていた。「今、ここで動いているもの」は「全人格的なもの」に比べると随分と小ちゃくて儚げにも思えるけど、それは「全人格的なもの」につながっていて、質的には変わらないのではないかと思う。

⚫︎とはいえ、膨大なデータと計算量があったとしても「わたしという場において、今、ここで動いているもの」を計算することは不可能だと言い切れるかどうかは分からない。ぼく自身よりもずっと「ぼくの欲望」について正確に計算可能なAIが、ぼくが欲望する(ぼくという場において何かが動く)よりも一瞬はやく、ぼくの欲望に完璧にフィットするものを見つけ出してリコメンドしてくるとしたら、AIによる誘導に逆らえるとは思えないし、逆らうことに意味があるのかどうかも分からなくなる。わたし自身よりもはやく「わたし」の状態を計算できるAIがあるとしたら、わたしはわたし自身ではなく、シミュレートされたわたしを後追いする鏡像か影でしかなくなる(「オリジナルわたし」が「シミュレートわたし」の過去でしかなくなる)。でもそれは、完璧に幸福な状態かもしれない。

(このような考えには、時間的に最先端の「わたし」こそがオリジナルであるという暗黙の前提があり、過去も未来も現在も、すべての「わたし」が等しく「わたし」であるのだとすれば問題はなくなる。ただしその場合「現在(今、ここ、そして「動くもの」)」が失われてしまうのだ。)

⚫︎「全人格的なもの」の肯定が、無文字社会の肯定にもつながっていると思った。無文字社会では、文字がないだけでなく、アーカイブ的なもの全般が存在しないと考えられる。物事は、人から人へと一子相伝的、直接的に伝えられるしかない。だから、あらゆる「知(そして技術)」には、その背景に人格と人生が宿ることになるだろう。

それはあまりに重たくてめんどくさいというのが近代化だと思う。師匠と弟子との関係はヘヴィーであり理不尽であり、それを悪用しようとすればハラスメントの温床になる。だからできる限り明文化してスッキリさせたいという流れがあり、しかし、それはそれではっきり限界があるのも事実だろう。ぼく個人としては、師匠的なものに対するとても強い忌避の感情が若い頃にあり(今でもあり)、できる限り(自力で)意識化、明文化するしかないと思っていた。しかしとはいっても、「デッサンを学ぶ」ということ一つに関しても、どうしても「誰か」から「直接的」に、(軽めの)師弟的な関係を作ってその中で学ぶしかないという側面がある。その技術は、それを教える人の人格から完全には切り離せないし、それだけならまだしも、それが伝承されているネットワーク(業界)のあり様とも切り離せない。しかしそのネットワークの内部に自分の場所があるとも思えない(そんなものの中に自分は居たくない)。そういう意味で、ぼくには、自分が全くどっちつかずの中途半端な人になってしまったという感じはある。

⚫︎ここで、「文字を介さない」という意味に限って考えれば、それはAIにとても親和的とも言える。AIは、「画像検索」「顔認証」「動きの抽出」など、文字(言葉)を介さない直感的なデータの処理がとても得意だ。顔認証は人間よりも精度が高いし、ややこしい紐の結び方をカメラで見てロボットアームで再現するということも一発でできるだろう。スマホタブレットも含めたPCの直感的UIもまた、文字や言語を介さないコミュニケーションの優位化を後押しするもののように思う。

ただ、Alは自分が学習することはできても、何かを「(人に)教える」ことは難しいのかもしれない。人間と同じ身体を持たないAIには、人間の身体が「どのように学ぶのか」を理解するのが難しいだろうから。人にあってAIにないものとしては(「人格」は、もしかしたらAIにもあるかもしれないとぼくは思っているので)、「死」「疲労」「欲望」「身体」という感じか。物理的身体を持たないAIには、人間の身体が、運動だけでなく認知や推論のレベルでも三次元空間に強く拘束されていることを実感することも難しいかもしれない(人が未だ、相対性理論量子力学を「実感」できないことがAIには理解できないかもしれない)。人が何かを学ぼうとする時、そこには、人格、欲望、身体の特性が強く介在し、そして学びの過程には不可避的に「疲労」が付きまとう。その「感じ」はAIにはなかなか分からないかもしれない。また、「死」を理解しないので、そこへの漸進的な接近としての「加齢」を理解するのも難しいだろう。人は常に「何歳」かである存在であり、20歳と50歳とでは、何かを学ぶときの学びのあり方も異なるだろう。

(実際には、人間とAIとをつなぐインターフェイスを、人間の側がいろいろ工夫するということになるのだろう。)

(前述した完璧な「シミュレートわたし」は、これら全てを計算によってクリアしているものだ。)

⚫︎対話の終盤に、山本浩貴さんのテキストに刺激を受けた保坂さんが、最近の自分はやや停滞気味ではないか、ここでいっぺん自分を建て直す必要があるのではないかと言い、それに対し山下さんが、いや、そう考えてしまうことこそが(頭が悪いよりも頭が良い方が「良い(上)」と考えてしまうような)「罠」なのではないか、「そのまま(自ずと動く)」がいいのではないか、と反論するという、踏み込んだやりとりがあった。保坂さんは「小島信夫の真似ばかりしててもダメなのではないか」という言い方をしていたと思う。

踏み込んだデリケートなやり取りを雑に書くのは良くないし、外から見ていた者の感想でしかないが、保坂さんはやはり基本的に「知的な人」であって、知的であることは保坂さん自身の欲望や喜びと深く結びついているのではないか(故に、いわゆる「知的なもの」に対する否定の感情も強くあるように感じられる)。山下さんからは(大病を経験したとはいえ)「体の強い人」の持つ、根底にある、理屈以前の存在論的な揺るぎなさのようなものが感じられて、それは山下さんだけでなく磯崎さんからも感じるのだが、その「体の強い人の揺るぎなさ」に対して眩しさと信頼とを感じると同時に、体も強くなく喧嘩も強くないぼくには、その「揺るぎなさ」には達せないかなあという感じもある。山下さんの「そのままでいい(自ずと動く)」という強い確信は、その体の強さに裏打ちされているところもあるように思われ、対して保坂さんは「体が強い」という人ではないだろうから「揺らぎ」を持つのだと思うし、(「自ずと動く」「自ずと変わる」とは違った)意識的な自己更新を指向するのも「知的」である以上は必然なのではないかと思った。

「知的」であることがそうでないことに比べて高い価値を持つと考えるというのではなく、(山本浩貴という)外・他に触れることで自ずと「知的」でありたいと望むように何かが動いた、ということではないか。