●お知らせ。東京新聞に載ったモランディ展の評を、下のリンク先で読めます。
http://www.tokyo-np.co.jp/event/bi/morandi/kiji/160318.html
●朝カルの西川・保坂講義。アルファ碁の話から、多重人格、分身、夢のなかの人格分岐(と、ファインマンダイアグラム)、統合情報理論による「意識の仕切り」、そして死への恐怖という話の展開で、全体としては「脳のなかになぜわたしは一つしかないのか」という話。
●西川さんはアルファ碁とイ・セドルの対局をニコ動で観ていたという。イ・セドルが勝った4局目の78手で、イ・セドルが異様な手を打って、その時に解説者は「イ・セドルさんの精神状態が心配です」と言ったという(それくらい変な手だった)。で、その手に対してアルファ碁はあきらかな動揺をみせて、その後10手くらいおかしくなっていた、と。それでイ・セドルは勝てた。
5局目の時は、序盤でイ・セドルがアルファ碁の動揺を引き出すことに成功して、そのままずっと有利に戦っていて、このままいくとイ・セドルが勝つだろうという展開だった。しかし、イ・セドルが確実に勝ちに行くような保守的な手を打っているうちに、アルファ碁は徐々に追いついてきて、終盤でまさかの逆転負けをした、と。イ・セドルは奇襲によってアルファ碁の弱点をみつけたといえるけど、その手は一回しか通用しなかった、と。
●アルファ碁の話と分身とがどう繋がるのか。アルファ碁のなかには四つの異なる盤面評価のシステムがある。一つは、画像処理によって直観的に「だいたいこの辺に打つのがいいんじゃないか」と判断するもの。それに対して、その二手先を読んで評価するもの。この二つが一つのセットになっている。一方、多量の棋譜を憶えたプロ棋士シミュレーションが導く一手があり、それに対し、適当な筋道でずっと先まで深く手を読んでゆくものがいて、二つでセットになっている。この、2×2の、直観セットと深読みセットの共働によって打つ手を決めている、と。
アルファ碁がどうやって強くなっていったか。自分のコピーと対戦する事を繰り返して強くなった、と。そして、強くなった自分をコピーしてまた対戦する(この時、過剰適応を防ぐために弱かった自分も保存しておく)。アルファ碁は通常三時間くらいかかる対局を三秒で済ませる。だから、この半年で、1500年分くらい自己との対局を繰り返して強くなった。
●パーフィットの思考実験「物理の試験」。意識を分裂させられるとして、物理の試験で、二つの筋道が考えられる問題を、二つに別れたわたしが別々の計算を実行し、統合されたわたしが二つを評価するという時、「わたし」は何人いるのか。あるいは「寒い部屋の転送」。わたしが自分のコピーを火星に転送する。オリジナルは、寒い部屋にいて転送され、コピーは寒くない部屋で生まれる。コピーは生まれて最初に「寒いから服を着なければ」と思う。この時、「寒いから」はオリジナルの意識(からの連続)であり、「服を着なければ」はコピーに生じた意識であろう。一つの文で主体が分離する。
●記憶のメカニズム。記憶はいったん海馬に保存され、後に長期記憶として大脳皮質へと転送される。この時、記憶=わたしだとすれば、(火星へ転送されるわたしと同様に)オリジナルの「わたし」は一度消滅して、そのコピーが大脳皮質で再生成される、とも考えられる。
●夢と多重人格。多重人格は通常、私1→私2→私3という風に継起的に人格が変化して、常に「私」は一つであると考えられている。しかし、私1と私2と私3とが合議する、ということもあり得る。この時、わたしの中に同時に三人の「私」がいることになる。
夢で、自分がどんどん別人に移行してゆくことがある。でもその時も、多重人格のように主体(わたし)は常に一つであり、その一つの「わたし」が中心で、それ以外は人でも、背景的、書き割り的だと考えていた。しかし(合議的多重人格のように)、それぞれすべてに意識があり、それぞれに「わたし」であると考えることも出来る。夢のなかには複数の「わたし」がいて、それが目覚めとともに一つのこの「わたし」に収束する、と考えることもできる。
これもまた(海馬→大脳皮質と同様に)、睡眠による「わたしの消滅(多数分岐)」と、覚醒による「わたしの再生成」と言えるのではないか。
●どんな小説、どんな物語であっても、「分身」は必ず本人に対して不利なこと、困ったことをする。例外はほとんどない。分身を、本人にとって「よくないもの」と感じるのは、人類の感情のなかに予め組み込まれていることなのではないか。
孤独と分身は対になっているのではないか。「わたし」の不確定性が外にあらわれると分身となり、内にあらわれると孤独となる、のではないか。
●トノーニの情報統合理論が面白いのは、これによって意識(わたし)の仕切り(その時この脳のなかの「わたし」は一つなのかそれとも三つあるのか)を、計算によって実際に導き、示すことができる可能性があるから。
(西川さんは、これを導くための数式を実際につくりたいのだ。)