2022/07/31

●『初恋の悪魔』で、仲野太賀と松岡茉優が居酒屋にいる場面。松岡がサラダの中のトマトを避けている仕草を見た仲野は、「トマトは嫌いですか」ではなく、「トマトソースもダメなんですか」と声をかける。これはちょっとした工夫なのだが、この一ひねりがあるのとないのとでは全然違う。それに対し松岡は「トマトソースはうまい」と言う。これにより松岡は「トマトが嫌いだ」という言葉を発することなく、しかし実質的には「トマトは嫌いなんですか」「そう、嫌いだ」と同じ意味のやり取りがなされることになる。

つまり、会話の一回のやり取りのなかに、「トマトは嫌い」「トマトソースは好き」という二本の線が流れていることになる。ここでは、トマトの話はしていない(トマトソースの話しかしていない)にもかかわらず、話題になっていないものの方(トマト)についての情報が交換される(まさに「目に見えるものは偽物、目に見えないものが本物」だ)。

さらに、トマトとトマトソースの違いは、「同じもので出来ていてもまったく違うものもある」という話へと発展し、この話題が仲野によって、「肉じゃが」と「コロッケ」の違いへと展開し変換される。「同じもので出来ていても違う」度合いは、トマトとトマトソースよりも、肉じゃがとコロッケの方が大きいだろう。そしてこの「同じもので出来ていても違う」という松岡の言葉は、そのまま「自分自身の同一性への疑い(多重人格)」に対する言及でもあることになる(松岡はつづけて、「街だって昼と夜で変わる」という意味深なたとえを口にする)。これらのやり取りは、ほんの三十秒足らずの間に畳み込まれる。

(そしてこの居酒屋の場面は、もう一度、発展的に反復される。)

この場面で仲野が口にした「肉じゃがとコロッケ」のたとえは、後に、松岡と田中裕子との場面で、松岡の口によって(多重人格について彼女がはっきり自覚的であることを宣言するセリフとして)引用されて反復される。「わたしのなかに肉じゃがとコロッケがいる」、と。そしてこのセリフが言われるまさにその時、松岡はハンガーにかかっているクリーム色(?)の虎柄のスカジャンを外して羽織るのだが、その時に派手な緑の裏地にも立派な虎柄があること(つまりリバーシブルであること)が見て取れる。

(このスカジャンは裏の方が色が派手で、虎の柄も立派なように見える。)

これら、一つ一つの表現上の工夫、あるいは単位要素の、反復、巻き込み、折り重ね、変換、展開、飛躍は、個々の要素を別々に検討するのならそこまで驚くべきことではないかもしれない。だがそれが、短い単位時間のなかに、濃厚にギュッとつめこまれていて、その、様々な工夫、反復、巻き込み、折り重ね、変換、展開、飛躍の凝集が、(陳腐な比喩だが)音楽的なリズムと調子と響き、つまりテクスチャーをなすまでになっている。これらの要素による「音楽的密度」と言うべきものは(表現的な強さとして)、とりあえずは「物語内容」とは切り離しても、ある程度それ自身として自律的に存在しているように思う。

「多重人格」を匂わせる表現上の「要素の連鎖」のほんの一部だけをみたのだが、このような、物語内容をとりあえず括弧に入れたとしても成り立つ「音楽的密度」の濃密さこそが、まずはこのドラマの驚くべきところであると思われる。これはもちろん、脚本、演技、演出、モンタージュ、舞台装置(空間設定)や小道具、音楽や音響など、あらゆる要素が絡み合うことで実現されている。

(「わたしの手の中にスマホがあった…」というあたりからの松岡茉優の「手の演技」が---まさに表現の音楽的テクスチャーをなす要素として---とてもおもしろい。)