2022/07/23

●『初恋の悪魔』、第二話をTVerで。面白くて体感時間20分くらいだった。まだ先があると思っていたのに、ルービックキューブがカチャカチャ回り出して、え、もう終わりなの、となった。伊藤英明は、一話では嫌な感じしかしなかったけど、二話を観たら、がさつなだけでいい人だと分かってよかった(たかいたかーい、がすばらしい)。

面白いのだけど、謎解き部分(というか「事件」のあり方)がちょっと弱すぎるのは気になった。これだと、事件は、仲野太賀に「兄への感情」を吐露させるきっかけのためにだけある感じにみえてしまう。事件そのものに、ある程度はそれとして個別のリアリティがあって、それが仲野太賀の感情を刺激する、という風にみえないと、仲野太賀の感情のリアリティの方も弱くなってしまうと思う。あと、模型が一話ほどは生きてなかったかな、と。

戯画化されているとはいえ、いくらなんでも刑事課が無能すぎないか、という疑問もあった。田中裕子が言っているくらいのことは、当然、監察医も言っているはずで、だとすれば六角精児があやしいことはすぐわかるのではないか。

そういうこともあって、仲野太賀が亡き兄の電話に出て語る場面が(もちろん、仲野太賀の演技は素晴らしいのだが)、ちょっと「泣かせ」に走り過ぎではないかとも感じてしまった。

このように、後から振り返ると、些細な部分ということではなく、けっこう重要な部分で不満があるのだが、しかし、それでも、観ている時間は圧倒的に充実していて、面白いのだ(柄本佑の演技はつくづくすばらしいと思う、上手いとか下手とかではなく、創造的な演技だ)。

●たとえば、松岡茉優が、誰かが手を振っているのをみて、自分に向かって振っているのかと思いきや勘違いだったという場面がある。これは、後にある、仲野太賀の恋人が彼に手を振っていると思ったら、別の男に手を振ったのだった(恋人には別の男がいた)という場面と響きあっている(この場面の先触れとしてある)のだが、それ以上に、松岡茉優が自分の記憶に自信がない(だから相手が知り合いかどうか分からない)という「戸惑い」をこそ表現していたのだということが、もっと後の終盤になって分かる。このように、一つの場面、一つの言葉が、複数回読み替えられることで、多層的に意味が折り重ねられる。

(伊藤英明が仲野太賀の両親に唐突に「たかいたかーい」をして驚かされるのだが、それが、彼なりの両親への怒りと抗議の婉曲的表現であったことが、直後の場面の「親だからといって子どもをバカにしていいということはない」というセリフによって分かる、とか。そしてその表現の突飛さや実直さが---一話の「上からボーリング」とあわせて---彼の人となりをそこはかとなく表現してもいる。)

このような、多層的な意味の折り重ねが多数仕掛けられていることで、ある場面が、その場面自身の面白さ、その場面自身の意味とは別に、別の場面の「読み替え」の要求を意味していたりするし、そしてその場面自身もまた、後にくる別の場面によって読み替えられる、というようなことが、頻繁に起こっている。物語が、前から後ろへと順番に進んでいくだけでなく、後ろから前へのフィードバックが同時に、頻繁に起こっている。順番に進む物語の展開と、ランダムに逆行する読み替えへの要求が、時間を二重化している。

(かと思うと、松岡茉優が大福を丁寧にティッシュに包んで隅に置く、という、後になっても何故そんなことをしたのか解釈の手がかりのない---多義性に開かれたままの---仕草もある。とはいえこの仕草=大福は、「意味」はないとしても、安田顕林遣都の夜の路上での衝突という「事件を導くオブジェ」になる。)