2022/08/25

『初恋の悪魔』のことばかり書いているのもどうかと思うのだが…。

坂元裕二の作風には、相反する二つの方向性がある。一つは、とても複雑な構築性だ。ある場面(出来事)Aがあったとする。そしてその意味が、当初はaだと思っていたが、後に文脈が変わることでbだと思われるようになり、さらにcではないかということになる。ある出来事の意味や価値が、多義的なまま開かれていて、文脈の変化によって読み替えられていく。意味や価値は常に文脈次第という相対性が強調されるような構築性だ。

だが他方で、これとまったく逆の作用をもつ「名セリフ」が多用される。名セリフは、文脈から切り離されても、それ自体として固定的な価値(意味)をもつ。まるでシールのように、文脈からはがされて、まったく別の場所にペタッと貼り付けることもできる。どんな場面で、誰が、誰に向かって言ったのかと関係なく、格言のように切り取られて、ノートにメモされていく。

とはいえ、名セリフも本当は文脈依存的であり、相対的なものだということが忘れられるのは危険だ。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」と「果報は寝て待て」ということわざの、どちらが正しいとは言えない。その適切/不適切の度合いは、それがどんな場面で口にされるかによって決まる。「犬も歩けば棒に当たる」ということわざ自体が正しかったり間違っていたりするのではなく、それが口にされる場面が適切だったり適切でなかったりする。

同様に、名セリフが「滑る」ということもある。それは、そのセリフ自体が陳腐だということではない。その場面でその「名セリフ」は適切でないという時に、名セリフが「滑る」のだ。そして、『初恋の悪魔』六話に、坂元裕二が意識的に名セリフを「滑らせている」場面があるのが面白かった。

仲野太賀と松岡茉優が、二人で仲野の部屋のカーテンを取り換えている場面。この場面では、松岡の人格が、松岡1(スカジャン松岡)から、松岡2(蛇女松岡)へと変化しているのだが、仲野はそのことに気づかずに「名セリフ」を喋りつづける。ここで仲野は二つのことを言っている。「根拠のない大丈夫はやさしさでできている」「きれいごとは、最初はきれいじゃなかった」。

後者からみていく。前向きな言葉を「きれいごと」という人がいるが、人生で何度も転んで泣いてきた人こそが、そのような「きれいごと」を切実に必要としてきたのだ、と。だから「きれいごとは、最初はきれいじゃなかった」のだ、と。まず、この言葉は誰に向けられているのか。仲野は、松岡1に向けて話しているつもりだろう。しかしこれは松岡への励ましの言葉というよりは、自分語りだ。仲野こそが、「負けている人の人生は、勝っている人に勝たせてあげている人生だ」というような「きれいごと」を口にする人で(それは、自分が無害な人間であることをアピールする処世術でもある)、しかしその背後には、主に兄との関係からくる深い屈折(挫折や嫉妬や敗北感)があることが既に描かれている。仲野はここで、自分のことを恋人である松岡1(スカジャン松岡)に聞いてほしくてこの話を語っている。ただ、関心が自分に向いている仲野は、松岡の変化に気づかない。

だが、ここでこの言葉を聞いているのは松岡2(蛇女松岡)であり、彼女にとって他人(というか「敵」)である仲野の「自分語り」など聞きたくもないだろう。故にここで仲野の語りは不適切であり、人格が変化して困惑している松岡2の前で朗々と語られる名セリフは白々しく空回りしてみえる。つまり、(語りの「内容」によってではなく「状況」によって)「滑って」いる。

では、「根拠のない大丈夫はやさしさでできています」はどうか。この「大丈夫」は、松岡1が自分のもう一つの人格に持つ不安と不信に対しての「大丈夫(もう一つの人格を消す方法はある)」であり、この言葉を聞いているときの松岡は、松岡1(スカジャン松岡)であり、言葉は届くべき相手にきちんと届いている。その意味でこの「名セリフ」は「滑って」はいない。

しかしこの直後に、松岡1から松岡2へと人格変化があったことを考えると、もし、ほんの少し間がズレていたとしたら、この言葉が松岡2に向けられたことになったのだ、と意識される。この「根拠のない大丈夫」は、松岡1が「(この世界に残るべき)本当の松岡」であることを当然の前提としているから、松岡2にとっては、自分の存在への限りない軽視であり、強い否定であることになる。一歩間違えれば、「やさしさ」どころか、松岡2に対するひどい「暴力」として響く言葉となる。名セリフも、不適切な場面に置かれると暴力になり得る。

おそらく、このような場面を書く坂元裕二は自分の作品に対するクールな批判意識をもち、また、自分のファンに対しても自覚を促す感覚を持っているのではないかと思う。