2022/09/03

●『初恋の悪魔』、第七話。坂元裕二がすごいと思うのは、インフルエンサーみたいな新しいネタをもってきて、一見それを(常識通りに)否定的に扱っているようにみせて、しかし、そこにきちんと「厚み」をもたせているところだ。こういうところで信用できると思ってしまう。

仲野太賀のような人物像、あるいは仲野太賀の演技は、分かり易くて、誰だって魅了されるだろうし、共感し泣いてしまうだろう。しかし、そういう、分かりやすく気持ちの分かる人、気持ちの表現が巧みな人だけでなく、犯人にされてしまう女性(あかせあかり)のような、彼氏が殺された翌日に「彼氏がころされた、だれかなぐさめてー(顔文字・涙)」という動画を上げてしまう(それで登録者数を稼いでしまう)、誰もが眉を顰めるような、なに考えてんだこいつみたいな行動をしてしまう人の、表面(表現されたもの)だけからは見えてこない悲しみを、ちゃんと拾って、そこに注目しているところがすばらしいと思う。

いっけん、「人間的な感情が欠如している」ように見える行動をするとしても、それは、感情の表現が適切にできない、下手だ、ということであるかもしれず、「感情がない」わけではないかもしれない。それを、「泣かせ」的な演技をまったくみせず(仲野太賀と対照的)、カラオケの選曲と、ほんのわずかな表情の変化(林遣都らによる外からのコメントもあるのだが)で表現する。いわゆる「演技のできる人」に演技をさせるというのとは別の表現-演出だ。仲野太賀のいかにもな「泣かせ」より(勿論、これはこれでよいと思うのだが)、ぼくはこちらの方により強く心を動かされてしまう。

あかせあかりのような人を、たんにインフルエンサーという新鮮なネタとしてだけ使うのではなく、また、突飛な行動をとるぶっとんだ(常識的には眉を顰めざるを得ない)女の子というキャラとしてだけ使うのではなく、ちゃんとその奥にある感情の揺らぎまでくみ取って表現し(しかしその表現は繊細で、過剰に表現的ではない)、そしてだからこそ、仲野太賀の感情がこの女性の感情とシンクロして、増幅され、爆発するきっかけとなるという展開に説得力がでる。

このドラマを観ていればおそらく誰だって、仲野太賀や松岡茉優(の演じる人物)を好きになるだろう。でも、そういう分かりやすい「好感度」だけで人を判断してんじゃねえぞ、「分かりずらい奴」の感情も考慮しろ、という視点がちゃんと入っている。この視点は、坂元裕二の他の作品にも常にあるものではないかと思う。

(当初は、林遣都がそのような人物の位置にいたと思うが、ドラマが進行するうち、観ている側もキャラに馴染んで、愛着もでてきて、当初にあった違和感や異物感がなくなってしまうので、ここで改めて、異物感のある「理解できない人物」を出して、そこにもちゃんと感情がある---感情的に排除してはならない---ことを示すのだと思う。)

松岡茉優の二面性と鏡像的に響き合うかのように、仲野太賀の二面性も、ドラマの当初から繰り返し描かれてきた。松岡茉優が松岡1から松岡2へと変化するように、仲野太賀も仲野1から仲野2へと変化する。通常は、常に愛想よく、へりくだって相手をたてるような無害な存在であることをアピールする処世術モードの仲野から、兄に対する複雑な感情や松岡に対する愛情の部分を刺激されると、あふれ出るような激しい感情をもち力強く(時に短絡的に)行動する仲野2があらわれる。松岡1と松岡2の変化が非連続的であり、中間状態がないのに対し、仲野1と仲野2は、感情と行動のモード変化であり、意識の連続性はあり、しばしばその中間状態で煩悶する。とはいえ、煩悶している状態は、行動様式としては仲野1の状態がキープされ、そこから感情が決壊するように仲野2があらわれる。

林遣都柄本佑も、そして松岡茉優も(松岡1の時は松岡1として、松岡2の時は松岡2として)、ほぼ一定のトーンを保つ感情・行動様式の振れ幅をキープするこのドラマ(たとえば五話で号泣する林遣都は、別に林2になったというような感情・行動様式の変化があるわけではなく変わらず林的だ)で、仲野太賀だけが、二面的(裏表がある)とさえ言えるくらいに大きな感情・行動様式の振れ幅がある。この、表面(処世術)モードと、普段は表に出ない裏の本心モードという二面性は、あかせあかりの、表面(インフルエンサー・常にかわいいわたし)モードと隠された本心モード(彼氏の別れ話が本当は辛い)モードとの二面性と響き合うものがあり、故に、彼女の行動の検証時空間のなかで仲野と彼女とはシンクロする。そして、今までは抑制していた言葉(消えてくれ)を松岡2に対して言ってしまうことになる。

(追記。つまり、仲野太賀もあかせあかりも、どちらも「対他的コミュニケーション人格(他人にみせるための顔)」に支配されていて、そこからはみ出す自分の感情をうまく表現できず、それによって自分自身の感情を押し殺していることさえうまく意識できない状態になっている、と言える。仲野の場合は、表現されないまま潜在している感情を、松岡茉優にうまく引き出してもらうことで表現可能になり、そこから仲野2が生まれたと言える。しかし、あかせあかりの場合、そのような人物は身近にはいなくて、林遣都たちによる検証時空間における分析を通じて、その感情がはじめて発見され、的確に表現され、それによりあかせ2があらわれる。)

松岡茉優は、松岡1と松岡2をまるで別人のように演じ分けているが、時々ちらっと、松岡2の状態で松岡1の特徴的な仕草を入れてくる(仲野が気づく「あくび」の場面以外にも)。芸が細かいなあと思うのだが、これはおそらく、松岡の演技上での工夫というより、脚本のレベルで書き込まれていることなのではないかと思う。

 (FRUITS ZIPPERの「私の一番かわいいところ」の詞は---曲もだが---おじさんが書いている。しかも、東大で数学と哲学を学んでいたおじさんが書いている、と思うと、味わいが増すと思う。)

●追記。SOIL&"PIMP"SESSIONSの『初恋の悪魔』テーマ曲のMVを観て、8月21日の日記で描いた林家(いや、鹿浜家か)のリビングの空間解釈が微妙に間違っていたことに気づいた。

SOIL&"PIMP"SESSIONS 『初恋の悪魔』 Music Video - YouTube

おそらく、大雑把に描くと下の図のようになっているのだと思う(下の図はいくらなんでもテーブルが大きすぎるが…)。