2022/09/04

保坂和志の小説的思考塾をリモートで視聴。自治とか拠点をつくるという話と、文体をつくるという話。

●まず、最後のほうでゲストとして出た山本浩貴さんが話していたことで、ああ、と思うことがあった。文芸誌の新人賞に出した小説が最終選考まで残ったが受賞には至らなかった。その後、自分の小説を推していてくれた編集者と会う機会があって、その時、「先生方はいろいろ議論していたけど、私には難しくて…」と言われた、と。それで、ああ、もう文芸誌の新人賞は無理だと思って、それ以来応募をやめた、と。

これはぼくにも覚えがあるが、「私には難しくて…」というのは、ほとんど門前払いのような拒絶の言葉で、つまりは「私はこの領域には入り込みたくない(触れたくない)」ということで、ある意味で「うわっ、キモッ」と言って拒絶される以上に傷つく。山本さんの編集者の場合は、一応作品は推してくれていたので、門前払いと言うことでもないのだが、直接会って話しているときに「難しくて…」と言われたら、それは目の前にバーンと壁が降りてきた感じになる。

まったく見当違いのことを言われるのなら(それはそれでキツイが)、「いや、そうじゃなくて…」と言えるが、「私には難しくて…」と言われると、「ああ、そうですか、すいません」としか言えない。この「難しくて」の壁はいたるところにあり、この分厚い壁を前にして、心が折れないようにするのはかなり「難しい」。この「難しくて」の壁を前に心が折れないためにも、話の通じる友人は必要だという話にはとても意味があると思う。

山本さんは「怖がられているのか」とちらっと言っていた。確かに、難しいことを言う人が怖く見えるというのは分かる。人によっては、博識を武器に攻撃的にマウントをとってくる人もいるし、あからさまに見下したような態度をとる人もいる。でも、山本さんがそういう人ではないことは、ちょっとでも話せばわかると思うのだが。

だけどおそらくそういう問題ではなく、「常識の外には触れたくない」という拒絶は、文化的なもの、アート的なものに関わるような人にさえ(本当にびっくりするくらい)広く根強くあり、この「私には難しくて」の壁に心が折れないようにするということは、制作をつづけるための(おそらく経済的な問題以上に)、とても大きな問題として立ちはだかることになると思う。

(下手に「常識の外」に触れると、今度は逆に、自分が「私には難しくて…」と言われてしまう人になってしまう、という恐怖もあるのだと思う。人の道を踏み外す、というような感覚があるのではないか。)

だから、ライバル関係というのとは違う、関心の指向性が近くて普通に話ができるというような人が近く存在するということは重要だと思う。一時、インターネットの普及でそういう人と出会うのがたやすくなったようにも思われたが、今では逆に、SNSの過剰な浸透がそれを困難にしているのか…。

●保坂さんは、文体を形作るものとして(1)情報量、(2)視野、(3)自己イメージ、を挙げている。「情報量」と「視野」は分かるとして、「自己イメージ」の重要性については気づいていなかった。自己イメージは、作品に先行するものとしてあるのだ、と。なるほどと思うとともに、保坂さん自身の実例がとても腑に落ちた。

情報量が図で、視野がそれを支える地のようなものだとして、自己イメージは一つのトーンのようなものとして、その「図と地」の関係をさらにその底で支える、〈「図と地」の地〉みたいなイメージと考えていいのだろうか。『世界は時間でてきている』に出てくる「人格質」みたいな感じと捉えた。

《(…)私たちは便宜のために、人にレッテルを貼って大雑把に分類することもある。だが、人格質ということで問題にしているのは、そうしたカテゴリーやラベルのことではなく、その人自身が内的に感じ取っている、「その人であるとはどのようなことか」という全体的な質感、つまりその人であることの全体的なクオリアのことである。》

《感覚質や体験質と違って、人格質は、人生という航路の背景に緩やかに、ときに転調しながらも流れ続けるアンビエントノイズのようなものだ。サールはこれに近いものを存在の気分(mood)や趣き(flavor)と呼んでいる。ベルクソン流には意識のトーン(…)である。それは特定の志向性を持たず、「その人を生きている」という漠然とした佇まいのようなものでしかないだろう。》

初期の保坂さんは、自己イメージとして自分は「なまくら四つ」の人だと思って小説を書いていた、と。なまくら四つとは、相撲で、組み合っても自分から勝負を仕掛けない力士のことだという。積極的に技をかけるのではなく、相手の出方をみて、それに対して反応する感じで、主体的には勝負を進めない。決定的な勝負を避けて、結論をできる限り先延ばしにする、危機的側面を避けて、だらだらいく、という性質が自分にはあると思っていた。しかし、ある時期、近所の友人と毎日のように将棋を指していた頃があって、その時に気づいたのは、自分は(だらだらいくどころか)ものすごく「攻め将棋」で、攻めた方が勝てた、と。

これで思い出すのが、初期の保坂さんは、小説から受けるイメージと、本人に会って感じる印象との間のズレがすごく大きい人だと言われていたことだ。これには、初期の保坂さんがそれほど有名ではなく、人前に出る機会も少なかったという理由もあるのだろうが。

(対他的・作動的にあらわれる顕在自己と、対自的・内省的にあらわれる潜在自己が違う、ということもあるかもしれない。)

保坂さんが実際には「攻め将棋」の人だったとしても、自己イメージとして「なまくら四つ」の人だと思って(感じて・信じて)小説を書いていたことが、小説の基底のところですごく効いていたということなのだと思う。そして、『プレーンソング』は、「なまくら四つ」という自己イメージがあったから書けたという側面は大きいのではないかと思った(おそらく---読んだのはずいぶん前だが---デビュー前の「揺籃」は基底が「攻め将棋」の人っぽい小説だと思う)。

それで、文体における「自己イメージ」の重要性について納得がいったのだった。

(そして、『カンバセイションピース』が完成した後に、保坂さんが「保坂和志の小説」はもういい、と言っていたのは---一定の「達成」があったという手ごたえもあるのだろうが---自己イメージの変化があったということなのかなあ、と。)

●注意深く読むために「書き写す」ことが重要だというのは本当にそう思う。書き写しながら、自分の読みが間違っていたことを発見することがかなりある。だが、ぼくは紙に手で書き写すのではなく、PCで「打ち写す」ので、保坂さんの教えに忠実というわけではないが。

文章を読んで、どこを引用して組み立てれば、その論旨を「最小量」できちんと要約できるのか考えて引用する部分を選び出し、それを「打ち写す」ということをよくやる。それを読み返すことで、そこに何が書かれていたかだいたい思い出せるので。自分の文章で「要約」してしまうと、どうしても自分の恣意が入ってしまうので忠実な「引用」縛りにする。一度普通に読んで、次に引用場所を選びだしてから、打ち写すので、写している時は三度目に読んでいるのだけど、それでもけっこう読み違いが発見される。