2024/06/22

⚫︎山本浩貴と保坂和志巣鴨での対談の前日。

おそらく、山本さんがインパクトを受けたのは「小説の自由」以降の保坂さんの仕事なのだと思われるが、ぼくにとっての保坂さんの最初のインパクトは90年代の作品だった。日本の文芸誌の世界のようなものがあるとして、90年代は今とは大きく環境が異なっていた。創作よりも批評が優位で、その批評には大雑把に言って、一方に伝統的な日本の文芸批評の流れがあり、もう一方にいわゆる現代思想的な理論からくる新しい批評の流れがあった。両者は水と油のようでいて、しかし完全に分離しているわけでもなく、例えば柄谷行人はそのどちらの流れにおいても王のような位置にあった。

その中にあって、保坂さんはまったく異なる場所にいて、まったく異なる方向を向いて作品を作っているように思われた。しかしそれは間違いで、もし、まったく違う方向を向いていたとしたら、80年代の現代思想ブームから90年代の「批評空間」という流れにどっぷり浸かっていた当時のぼくがそこに引っ掛かることはなかったはずで、おそらく、ある意味でとても近いことを、しかし「根本的に違うやり方で考える」ということを考えていた(実践していた)ということなのだろうと思う。当時、伝統的な文芸批評の磁力からも、蓮實・柄谷的な批評の磁力からも、どちらからも一定の距離をとりつつ、そこから自由に「別のやり方」で何かを考えよう(実践しようと)と努力している、ほぼ唯一の小説家であるように見えた。

同時期に、現代思想的な圏内にありつつも、当時の日本の現代思想=批評空間的な構えとはまったく異なる在り方で思考を展開している人として、樫村晴香という人のテキストを発見したのだが、その時には二人が若い頃から友人だったことはまったく知らなかった。

初めて読んだ保坂さんの本は『この人の閾』で、その時はまだ『季節の記憶』は出版されていなかった。ぼくにとっての初めての「保坂和志の新刊」が『季節の記憶』だった(新宿の紀伊國屋で買ったというぼんやりした記憶がある)。保坂さんはすでに芥川賞作家ではあったので、芥川賞以降、単行本『季節の記憶』以前で、だから95年か96年だろう。樫村さんのテキストを初めて読んだのは「現代思想」の95年1月号のドゥルーズ特集だから、95年だろう。その後、「現代思想」97年11月号の二人の対談で、二人が友人であることを知ったのだったと思う。

ぼくにとって、保坂・樫村の最初の大きな「効能」は、「批評空間的(蓮實・柄谷的)」な「思考の構え」の相対化だった。全然違うやり方があるし、こっちもこっちでとても「強い」という感じ。いや、「こんなのがありなのか」「こっちのが強いんじゃないか」という衝撃、というべきか。おそらく当時は信者に近いくらいに「批評空間的な構え」の内部にあったから、相当に大きな出来事だった。だからといっていきなり「批評空間」から離れるということではなく、ずっと強い影響下にあるのだが、「これが絶対(これが正統 ? )」みたいな感じが、90年代後半を通じて徐々に薄れていった感じ。

一方に「批評空間」があり、もう一方に保坂・樫村があって、両者が、それなりに強い緊張や矛盾を孕みつつも、ぼくのなかで並走していたという90年代後半がなかったとしたら、わりと早々に行き詰まっていたのではないかという思いがある。

(初めて読んだ『この人の閾』は短編集で、最初に収録されている「この人の閾」を読んだ時は「へえ、わりと面白いじゃん」くらいの感じだったが、二つ目の「東京画」という短編で、「なにこれ、こんなのがありなのか ! 」という衝撃を受けた。こういう文章のあり方、こういう思考のあり方、こういう小説のあり方、があり得るということなど今まで想像したこともなかった、完全にやられた、という感じ。)