2019-02-23

巣鴨に、保坂さんのトーク(「時間・過去・記憶」)を聞きに行く。パワポも使わず、原稿を用意するでもなく、(聴衆にハンドアウトとして配られもした)レジュメともいえない覚え書き程度の手書きメモだけで、一人で90分フリートークをする。「時間・過去・記憶」というテーマが掲げられてはいるが、筋の通ったまとまった話ということでもなく、あちこちに話題がとびながら、話は即興的にすすめられていく。このようなことを、保坂さんはこれから、定期的に、基本として月一で毎月やっていくのだという。

これはおそらく、作家が自分の考えを語る、あるいは人に何かを教えるというよりも、即興演奏のようなものであり、これ自体を一種の小説的な実践として考えているのだろうと思った。

小林秀雄吉本隆明の講演の録音が残っていて、たまに聞いたりすることもある。吉本隆明は、割とちゃんと原稿をつくってあるか、すくなくとも構成はきっちり考えられている感じで喋るが、小林秀雄は、その場で即興的な思いつきで喋っているように感じられる。一種の話芸のような風合いもある。ただ、小林秀雄は「偉い先生」として喋っていて、人々に教えを垂れるという感じだ。

保坂さんのは、そういうものとはちょっと違う。インタビューを受けるというのでもなく、(何かを教えたり解説したりするような)講義でもなく、自著や自分のプロモーションというわけでもなく、小説家が、自分から、目の前に集まった聴衆に向けて考えた何かを話そうとする、というのは、そんなに普通のことではないように思う。ここで保坂さんは、目の前にいる人に何を言おうとしているのか、あるいは、保坂さんがこういう場で話すというのと、どういうことなのか。それは自明なことではなし、そういう、前もって分かっているわけではない、自明ではないことを保坂さんはやってみようとしているのだと思う。

●質疑応答の時に、ある人が、本(おそらく『書きあぐねている人のための小説入門』)では、小説は時系列に沿って書いた方がいいと言っているけど、それは今日のトークで言っていること---あるいは、保坂さんの実作そのもの---と食い違うのではないか、と質問していた。これは批判ではなく、素朴な疑問あるいは戸惑いのような感じで口にされたものだろう。そのとき、この人は、保坂さんが『カンバセイション・ピース』まではずっと、まさに時系列に沿って書かれ、基本的には時間の前後の操作や回想のない小説を書いていたということを知らないのかもしれないと思った(「経験の少ない人は時系列に沿って書いた方がいいと今でも考えていますか」とも聞いていた)。キャリアの長い作家の読者というのは、移り変わっていくものなのだなあ、と。

保坂和志といえば、『プレーンソング』から『カンバセイション・ピース』までのような作風をイメージするのはもはや古い読者で、若い人は、いきなり『小説の自由』とかから入っているのかもしれない。おそらく、『小説の自由』以降の保坂さんの読者という人たちがいて---というか、そういう人こそが保坂読者としてはいまや主流で---そういう人は九十年代からの読者とはかなり異なったイメージを、作家としての保坂和志に対してもっているのだろうということを改めて感じた。

(年を取ると、若い人たちが基本的に「昔のことを知らない」---若い人は昔はまだ生まれていなかった---ということを忘れてしまう、ことがある。これも時間の混乱だが。)