●実は『未明の闘争』(保坂和志)をまだ最後まで読んでいない。とはいえ、明日か明後日にはきっと最後まで行くと思う。日記をみると、読み始めたのが6月25日だから、五か月かけてようや最後まで行き着くことになる(読み始めた時はまだ本が出ていなくて、途中から本に切り替えた)。村中鳴海がどうやって登場したのか、ちょっと今すぐには思い出せない。
毎日少しずつ読んでいたというわけではなく、読んだり読まなかったり、近づいたり離れたりしながら、(ずっとこの小説のことが興味の中心にあったというわけではない)集中するというのとは別の「緩く持続する関心」のなかで読んでいた。
この小説はきっと、読み終わろうとして読むと途中でちょっとキツくなる。しかし、読み終わろうと思うことなく、ただ読んでいけば、いつまでも読んでいられる。多くの場合、(かなり長い小説でも)ある一定の期間の内に「読み切ろう」という集中的な意思や関心のようなものを持たないと、途中で一度中断するとそこでそれっきり疎遠になってしまいがちだけど、この小説に関しては、その集中する感じを持たない方が上手く読めるように思われる。
いや、今までも保坂さんの小説はみんなそうだと言えるかもしれないけど、でも、今までの小説は「集中して読もう」と思えばそうやっても読めてしまうような配慮があったけど、この小説は、ある集中のなかで読もうとすると読めなくなってしまう、という感じになっているということなのではないか。
(ただ、別の意味での集中力は必要で、関心の切り替えが唐突で振れ幅が大きいから、一つの流れに乗っかるように読んでゆくことが出来なくて、素早く予想外に動くものを目で追うような集中の仕方は必要で、しかし、そのような集中力はそんなに長くはつづかないので、結果、きれぎれに読む感じになる。)
(とはいっても、細かい唐突な動きがそこから派生してくる三つの大きな流れ――アキちゃんの流れと村中鳴海の流れと猫と犬の流れ――はあると思うけど。いや、アキちゃんの流れと村中鳴海の流れとは割ときれいに区別されるようなものだけど、猫と犬の流れはそのどちらにもつながっているようであり、別の流れでもあるようで、きれいに切り分けることができない、という感じなのかもしれない。)
(今までの保坂さんの小説は基本的にアキちゃんの流れ的要素を主成分として出来ていて、猫や犬の流れも、アキちゃんの流れの内にあることで成立していたように思う。村中鳴海の流れ的な要素は、潜在的なところで作用していて、表面にはとても遠慮がちな形で――『季節の記憶』のナッちゃんや『カンバセイション・ピース』の綾子のように――出てきているだけだったのが、村中鳴海の流れが表面に出てきて炸裂しているところが、まず、この『未明の闘争』の大きな特徴のように思われる。)
(追記。「残響」の堀井早夜香が村中鳴海にちょっと近いのかも。)