●『朝露通信』(保坂和志)を読み始める。まだほんの読み始め。今までの保坂さんの小説のなかで、一番「直接的にくる」感じというか、書かれていることを読み取ろうとするより先に、こちらの記憶がかき回される感じがあって、数行読んだら本を置いて、全然別のことをぼんやり考える、みたいな状態になる。
(単位が「短い」からというより、記述における「関心の移動」の自由さに反応している感じだろうか。というか、保坂さん自身はおそらく、普段は周囲への関心がポンポンといろいろな場所に拡散してゆく感じの人で、でも小説を書く時は、ぐっと力をこめてそこに一定の持続を創り出していて、その持続のあり様が「保坂和志の小説」的な感触なのだと思われるけど、その持続を放棄して、むしろ意識的に一ヵ所に留まらない感じにしているのかなあと思った。「移動」というのは、「動いて」いるけど経路としては「繋がっている」という感じ。語りの「基底面」みたいなものをつくらないようにする感じは『未明の闘争』と同じように思うけど、それに加えて、一ヵ所に長居しない、という感じ。しかし次の場所へとジャンプするというより、細い糸が繋がっている、あるいは互いの場面は反映し合っている。)
(あと、甲府の風景の特徴を挙げながら、それを描写するというより《甲府盆地が乾いていることを自分に向かって言いたいのかもしれない》と書かれるところに、何かすごく納得させられるものがあった。)
(小説の冒頭に出てくる《あなた》は、ひょっとして《自分》なのではないか、とか。)
そして、何かを「書きたく」なる。毎日この日記に書いているようなこととは違ったことを、別のところから出てくるような言葉を書きたくなってくる。ぼんやりしつつも、掻き立てられている感じ。
実は、「地元」に関する、小説とも何ともつかないような文章を、一定のまとまったボリュームのあるものとして書こうと思って、書きはじめたのだけど、こういうものは、バタバタと忙しい用事が入ったりすると、すくに気持ちが途切れてまったく書けなくなってしまう。でも、それはちゃんと書かなければ、というか、書きたい、と『朝露通信』を読みながら思う。
(まず、地元の詳細な地図――出来るだけ大きいもの――を手に入れなければ、と思っていたのに、それさえしていない。)
(それにしても、「鎌倉」と「平塚」は、距離としては近いけど、やはり全然違うのだなあ、とも思う。)
小説ということに関しては、ぼくは「保坂和志からの影響」を意識的に封印してきたという感じがあって、それは、ぼくが保坂さんみたいな感じで書いても(どの程度それが出来るかはともかく)、「予想通り過ぎて(自分でも)面白くない」という気持ちがあったからで、でも、もうその封印は解いちゃってもいいかなあと言う気持ちにもなってきた。