●『朝露通信』(保坂和志)を読んでいて、保坂さんと自分との共通点に一つ気付いた。それは、きょうだいのなかでは「兄」なのだが、子供たちの人間関係のなかでは「末っ子」に近いポジションにいた、という点だ。『朝露通信』の主人公においては、甲府のイトコたちとの関係によってそれが刷り込まれ、その感じは鎌倉に移り住んでからも受け継がれている感じがする。
ぼくがまだ小学校に上がる前くらいの頃、近所の子供たちは、年齢にかなりのばらつきがある十数人くらいの集団をつくって遊んでいたという記憶がある。ぼくがおそらく4、5歳くらいの時、その集団のリーダー格の男の子は12、3歳くらいか、あるいはもうちょっと上だったかもしれない。この記憶が正しければ、十歳近く年齢にばらつきのある子どもたちが集団で遊んでいたことになる。近所の子供たちの集団なので厳密にメンバーが決まっているわけではなく、基本的に男の子の集団だったと思うけど、女の子が何人も混ざることもあった。
(このことは、大山ゴマについて書かれているところを読んでいて思い出した。ぼくがまだ自分ではコマを廻せない頃に、まわりの年上のお兄さんたちが、大きなコマを廻して、ガンガンぶつけ合っているのを畏怖と尊敬を感じつつ見ていた場面を思い出して、そこには様々な年齢の子供がいて、女の子もいた。)
ただ、この記憶に怪しいところがあるのは、ぼくが小学校に上がる頃には、もうこの集団はほぼ消滅していたということがある。だが、ぼくの実家の辺りはその頃、田畑ばかりだった土地が家や団地にかわり出し、外から多くの人たちが流入してきた時期だった(小学校に通っていた六年間で、学区内で一つだった小学校が、生徒数の増大によって三つに分離し、その後もさらに二つ増えた)ので、土地の土着的な習慣のようなものが急速に失われていったのかもしれない。
だがそれでも、ぼくが小学校の一、二年生の頃は、学校で遊ぶのは同級生だけど、家に帰ってから遊ぶ近所の友達は五、六年生が多かったから、まだ名残はあったのだと思う。しかしその五、六年生も、さすがに中学生になると小学生であるぼくに付き合ってくれることもなくなり、学年が上がるにつれて、近所でも同級生と遊ぶようになっていった。
(もしかすると、最初は近所に「子供」が少なかったから、離れた歳の子供たちが集まって遊んでいたのだが、人口が流入して子供の数が増えると、自然と同じ学年の子と遊ぶようになったのかもしれない。)
で、この、明らかに圧倒的に知力も体力も自分より上のお兄さんたちの(エロい感じのお姉さんとかもいた)集団のなかに、最も無能な存在として、しかし強い力に庇護された状態で、自分が存在している感じというのは、おそらくぼくの感覚の深いところに強く残っている。穏やかな人ばかりではなく乱暴な人もいたし、お兄さんとは言っても子供なのだから機嫌が悪い時もあり、理不尽にいじめられたりすることもあるのだけど、そうだとしても、庇護されている感じは強くある。
この感覚が、『朝露通信』にも色濃くあるように感じられる。