●引用。清水高志さんのツイッタ―より。『語る西田哲学』、高い本だけど注文してしまった……
山内志朗氏が『誤読の哲学』でフーコーの『言葉と物』やマルブランシュについて言及している箇所を読み返している。。今年はマルブランシュの翻訳を結構やらされたが、参照できる資料があまりなくて困ったものである。この本は使えたかも知れないな。。》
《『言葉と物』でフーコーが、ルネサンス期には記号と記号対象を類似性が媒体するという三項関係であったのが、『ポール・ロワイヤル論理学』以降、シニフィアンシニフィエ二項関係になったと言ってるんだけど、これは二項か三項かという言い方をすると本質がわからなくなると思う。》
《問題は記号と記号対象が結び付けられるにあたって、「いちいち」多種多様な類似性を担うものが媒介されたかということだ。記号は、ルネサンス期にあっては記号対象を想起させる「道具」だったのだ。》
《一方で近代の記号体系がやろうとしているのは、「一つの万能の道具」、「あらゆる道具と可換的な道具」を潜在的に想定し、それによって記号たちを繋いでいくことだ。》
《ただし、ルネサンス期の知の道具としての記号にしても、自分の能力を信用拡大して行こうとする傾向はおのずと持っている。。このあたりを、どう考えるのか。》
《あと、三項という場合に重要なのは、その都度変わっていく媒体ではなく、人間というファクターだと思う。本当に中間にいるのは尺度としての人間だ。それがモノと記号を相互にふりわけながら結んでいるのだ。》
《つまり、中軸はずれている。そう考えないと、モノなり記号なりを固定的に考える方向に落ちる。物象化とか、超越的シニフィアンとかに。》
《そして媒体も、類似性としか見られなくなり、それが差異化をもたらす要素が見えなくなる。。ファロス云々ではなく、そういう考え方が、人間を去勢するのだ。》
《こんなことをごちゃごちゃ考えていると、西田幾多郎が結構参考になったりもします。。》
《アルノー、マルブランシュ論争について山内氏が書いているところを読む限り、アルノーはマルブランシュの思想を簡単に捉えすぎているらしく思える。。》
《モノが精神に直接には現前せず、現前させるものとしての観念がそこでは働く、というマルブランシュの主張を、アルノーは近代以前の三項的な媒体の復活だと批判したというんだけど、モノには全的に現前しない部分がある、という意味でなら、まったくこれはおかしくない。》
《現代のハーマンなんかもそんな話ばかりしている。モノの現前ということを、単純化して捉えすぎているのではないか。》
《また、積分の記号は何を表象しているのかと問い、山内氏はライプニッツは現前の媒体としての記号を捨て、あらたに符号を使った近代的二項関係へと進んだと書いているが、これにも賛同しがたい。現前ということを幾何学や視覚のイメージに限定しすぎではないか。》
《たとえばグノモンのような知の道具があると、それを中心に見て一方にはモノがあり、反対側では比量的な関係が導き出される。人間にとってモノが現前するというのは基本的にはこういうことなのであって、類似性や差異をはらむ記号も元来はそうしたものとして機能している。》
《これが記号だけの連鎖や、量だけの結びつきになるのが例外的なのであって、幾何学や「ギリシャの奇跡」、あるいは近代とその資本主義などはむしろ特殊な価値観であり、それがばっさり切り落としているものがある。》
《モノが精神に現前するということと、現前させるための媒体と、時間との関係をいかに考えるか。。》
《「時は自己のあるところにある。従って時は無数にある」西田幾多郎
《時間を四原因とパーソンから考える。。》
《円現、エンテレキーというのは、マテリアと形相(もしくはフォーマット)の、一方向的な一つの型にすぎない。両者の交差交換はこれを限りなく複雑にする。。しかしながら、この両者が「折り返し点」として機能するためには、残りの二原因がうまく用いられねばならない。すなわち、起成因と目的因が。》