●引用、メモ。『哲学のプラグマティズム的転回』(リチャード・J・バーンスタイン)、「第6章 経験が意味するもの」より。第一性、第二性、第三性について。
《(パースからの引用)第一性とは、他のものとは無関係に、積極的にあらわれているものである。
第二性とは、第三のものとは無関係に、第二のもののあらわれの中にあらわれているものである。
第三性とは、第二性を生み出すものである。》
《(…)パースによれば、これらの契機は「心の中」にある(その意味はひとまず措くとして)ものすべてにかならず現前している。しかし彼は、そうしたカテゴリーが心的なものにすぎないと言いたいのではない。三つのカテゴリーはあらゆる現象の契機なのである。心の中にあるだけという誤解を避けるには、「われわれの知る」契機と言えばよかったのかもしれない。ともかく、これらのカテゴリーは、あらゆる現象にそなわる特徴、側面を指すものとしてもちいられている。そうした特徴はたがいに識別はできるが、分離はできない。すべての契機はつねに一緒に現前しており、ひとつだけ取り上げて、その「純粋な観念」を手にするというわけにはいかない。「注意をひとつの契機にだけ向け、他の契機を無視することによる」弁別を、パースは「切離」という言葉で呼ぶこともある。》
《(第一性について、パースからの引用)赤さは積極的なあらわれ方をする。他の色とのコントラストで、赤さがいっそう強く意識されることはあるかもしれない。だが、赤さは他の何かとの相対的なものではない。それは絶対的であり、積極的である。赤の色を想像したり思い出したりする場合、そのイメージは鮮明なときも、ぼんやりしているときもある。しかし、それによって赤さの性質が影響を被ることは決してない。(…)性質自体には、鮮明さも不鮮明さも含まれない。ということは、性質そのものは意識ではありえない。実際のところ、それは単なる可能性にすぎない。……可能性という、第一性の存在様態は、いわば存在の萌芽である。無ではない。だが現に存在しているわけでもない。》
《パースによれば、あらゆる現象に第一性、すなわち質的なアスペクトがある。(…)「赤さ、塩味、痛み、喜びや悲しみ、いつまでも響く音の調べ。こうしたものを、ぼんやりと、対象化せず、ましてや主観的なものとして位置づけることもせずに感じるときの感覚」。つまり、ここでいう質とは、外からうかがうことのできない、心のなかに仕舞い込まんだ主観的な感じのことではない(ただし、主観的な感じが独自の性質をもつことはある)。》
《「われわれは第一性とじかに接している」とパースは述べているが、ただし、こうした質が直接知られると言っているわけではない。知識とか覚識といったものは、第三性のカテゴリーの導入をまってはじめて云々できるものなのである。》
《(パースからの引用)三つのカテゴリーのうち、もっとも理解しやすいのが第二性である。世界の荒々しさによって何よりも浮き彫りになるのが、この契機だからである。「動かしがたい」事実という言い方がある。この動かしがたさ、経験の有無を言わせぬ力が第二性である。扉がかすかに開いている。それをさらに開けようとする。だが何かが邪魔している。扉に肩を押し当てて開けようとすると、力を入れている感覚と抵抗の感覚を経験する。二つの意識形態を経験しているのではない。同じ一つの意識に二面性があって、その二つのアスペクトを経験しているのである。》
《ここでもやはり、第二性が主観的なものにすぎないと考えてはならない。「われわれは第二性を経験するだけでなく、外界に帰属させてもいる。あまたの個物、自己のごときものが、たがいに反応しあっていると見なすのだ」。現実に存在するということが第二性である。「現実に存在しているということは、他の事物に反応しているということである」。だとすると、パースが序数をカテゴリーの名前としてもちいた理由も見当がつくだろう。第一性が一項的なのに対して、第二性は二項的であり、つねに二重性をともなっているからである。》
《パースの独創性がもっとも発揮されるのがこの第三性である。「第三性」という名称は、このカテゴリーのどの要素にも三項関係が見られることに由来している。習慣、法律、規則、推論、意図、実践、行為、概念、「もし〜ならば〜だろう」という仮定法の条件文、そして記号---これらはすべて第三性に属する。》
《物理的事象の(ひいては心的事象の)継起---つまり、二項関係の列---では、贈与の関係はうまく説明できない。贈与をたんなる位置の移動ではなく贈与たらしめるのは、規約、規則、習慣であり、それこそが贈与の特徴なのだ。》
《第三性の例としてもっとも注目すべきは記号だろう。パースは記号をいくつものやり方で定義している。たとえば、「対象と呼ばれる別の何かによって規定され、人におよぼす効果---解釈項と呼ぼう---を規定するもの。その結果として、解釈項が対象によって間接的に規定されるもの」が記号であるといわれる。また、次のよう定義もある。「どういったかたちで存在するにせよ、対象と解釈項とを媒介するものはすべて記号と呼ぶことにしよう。それはなぜか。記号は解釈項との関係を通して対象によって規定されるとともに、対象への指示を通して解釈項を規定する。かくして解釈項は、この“記号”の媒介を通して対象により規定されるからである」。》
《あらゆる現象には、第二性と第三性が、区別はできるが切り離せない契機、アスペクトとしてそなわっている。経験そのものは純粋な第二性ではなく、そこには第一性と第三性の契機も含まれる。経験にそなわる第一性のアスペクト(質)、第二性のアスペクト(野蛮な強制力)、第三性のアスペクト(推論的、認識的性格)はただ切離されるだけである。》
《第二性の強制力と第三性に属する認識の権威というパースの区別は、因果的限定と論理的限定というウィトゲンシュタインの区別---それはまた、彼に影響をうけた多くの哲学者が採用する区別でもある---と密接なつながりがある。しかし、前者の区別は、原因と理由という周知の区別と同じではない。第三性には、理由以外にも多くの要素が含まれる。習慣、振る舞い、記号もまた第三性の例である。(…)パース自身は、因果性に法則への言及が含まれると論じている。したがって、因果性には第三性が含まれるのである。》
●第一性と第二性と第三性を、質、差異、関係と言い換えることはできるだろうか。質は経験の可能性であり、差異は経験の源泉だが、それらはつねに媒介を介した関係を通してのみ現れ、経験はすでに関係(三項関係)となったものとしてしかあらわれ得ない。差異も質も、すでに関係としてあるものから遡行的に見いだされるしかない。物理的事象の継起でさえ、二項関係の列ではなく、二項が物理法則に媒介されることによって生じる三項関係であると言える。
質も差異も、それ自体として経験となることはなく、経験=関係(第三性)から「切離」によって遡行的に見いだされるしかない。とはいえ、質や差異は関係に還元されるのではなく、それ自体として自律的にある(はずである)。つまり、関係が質や差異を構成するのではない。経験に先立つ、可能性としての質、源泉(現実)としての差異があるからこそ、第三性としての経験が生じる。