●『千の扉』(柴崎友香)。この小説を読んで、ネットで検索して戸山ハイツという団地の存在を知った。早稲田大学にはけっこう行くことがあるのだが、すぐ近くにそんなところがあるとは知らなかった。
ぼくの関心を反映しすぎかもしれないが、これこそ幽体離脱的な小説であるように思った。さまざまな柴崎的主題、柴崎的技巧がぎっしりとつまって、縦横にはしっているという感じ。
同じような部屋が何千とある団地という舞台がある。たくさんの箱があり、そこにそれぞれ異なる中味がつまっている。その中味は、それぞれ違っていながら、ある程度は同じであり、交換可能ですらある。というか、箱の同一性(類似性)によって、異なる中味たちが結びつけられ、異なるものたちが比較可能になり、交換可能性が生じる。箱には、空間的な広がりがあり、時間的な広がりもある。箱という器の同一性(類似性)は、空間的な広がりと時間的な広がりに違いを曖昧にする。あるいは、空間から時間へ、時間から空間への転換を可能にする。小説は、継起的展開であり、同時に、(本というオブジェクトのなかの)空間的な配置でもある。
物語の主線がある。主役と言える登場人物がいる。物語のはじまりと終わりがある。主線にかかわる主要な人物たちがいて、その人物たちに(過去を含む)それぞれの事情がある。主要な人物と関係をもつ二次的な登場人物たちもいて、そのような人物にも、(主線とは特に関係のないような)それぞれの事情がある。さらに、それらの人物たちとの関係も定かではない、この箱(箱の置かれる土地)とのかかわりによってのみこの小説に召還されているようにみえる人物たちも登場する。さまざまな人物、さまざまな時代の、さまざまな出来事の切片が、物語の主線の周囲に配置される。
小説は、多数の切片によって構成されるが、それぞれの切片たちの関係の距離や濃さはさまざまだ。物語の主線に近い切片たちは、互いに緊密に関係し、関係の緊密さは継起的な時間をつくりだし、物語のはじまりと終わりを形作る。一方、物語の主線とはほとんど関係のないように思われる切片も多数存在する。それは人物たちとの関係が遠いだけでなく、時間的にも遠い場合もある。あるいは、主線には含まれないが、それほど遠くはなく、主線の近傍に配置されるような切片もある。
切片たちは、主線との関係の距離や濃さという意味では一様ではなく、濃淡があるとしても、一つ一つの切片(場面)としては自律的にあり、濃淡の違いが強くあるということはない。どれも同等にくっきりとしている。
物語の主線を形作る切片たちの関係は、継起的な時間をつくりだすという意味では、距離が近く、関係が濃いとは言える。しかし、関係とは、ただ継起的な時間をつくりだすだけではない。切片たちの空間的、あるいは因果的配置によって、継起的な時間とは別の関係がふいに立ち上がる瞬間こそが、この小説の醍醐味ではないか。
たとえば小説の終盤で、詠子が勝男に、立川の工場から帰る電車が止まってしまって、みんなで荻窪から歩いて帰ったことがあると話す場面で、「この話は前にも読んだ気がする」と前に遡り、物語の主線からとても遠い関係にあると思われた一人の女性のエピソードに突き当たり、またさらに、その場面と、主人公がバイトしている店で常連客と話している場面とに、とてもかすかなつながりが見いだされたとき、物語の主線を形作る一連の流れでは思いもしなかった「ある関係」が浮かび上がってくる。このとき、継起的な意味での時間とは別のあり方で「時間」というものが強烈に立ち上がってくる。このような感覚は、物語の主線から得られる感覚や感情とは、まったく別の経路を通って読む者へともたらされる。
この小説を読む時、一応は、物語の主線に導かれて読みすすむのだが、それとは別の、さまざまな経路からくる、さまざまな感興が、主線の進行と同時に降り注いでくるのを常に感じることになる。
この小説には、さまざまな形で、出来事の連結や出来事のこだま(反復や変換や反転)が、縦横にみっしりとした密度で張り巡らされている。しかしそれは、バラバラに配置されたパズルのピースが、最後に見事に一枚の絵へと収斂するというような意味での「伏線」とは異なる。それらの細部は、けっして一枚の絵には収まることのない、複数の「関係の異なる結ばれ方」を生むために配置されている。異なる経路で複雑に結ばれる関係の多重性が、この小説の世界の深さとなっている。
だからこの小説は、できる限り注意深く、詳細に読まれるのがよい。しかしその注意深さは、唯一の正解(謎の解明)にたどり着くための注意深さではなく、多様な感興へ至るために、仕掛けられた響きの複雑さを聴き取るために必要な注意深さであるだろう。
おそらくこの小説のなかで、他の切片たちともっとも関係の遠い(薄い)パートが、中学生たち(山田、山下、山本、山岡)のでてくる場面だろう。この場面は、他のすべての場面から切り離されつつ、俯瞰するような位置からこの小説を見渡している。俯瞰しているとは言っても、小説全体を要約しているのでもなく、超越的に制御しているのでもない。この場面はただ、少しずれた次元から、「この小説」を眺めている視線があることを示していると思われる。そのような視線が小説の中に埋め込まれている。