●「ヨハネスブルグの天使たち」と「ロワーサイドの幽霊たち」をもう一度読み返してみた。いくつもの皮肉が互いに緊密に絡まり合うことで、皮肉ではとうてい済まされない何かがたちあがる。個々の要素をひとつひとつ取り出せば皮肉に過ぎないかもしれないものが、絡まり合うと一つの世界(世界観、世界像)というしかないものになる。「ジャララバードの兵士たち」に登場するルイによる「一つの死は悲劇でも百万の死は統計だ、その中間は…」という認識はありふれたものだけど、その中間にあるものがあるとしたら、それはそのような意味での世界観、世界像だということなのかもしれない。
●「ヨハネスブルグの天使たち」で最も重要なイメージは筒型の高層ビルの屋上から少女型のロボットが毎日落下してくるというものだけど、小説を読んだだけではそのイメージが明確に見えるようには描写されていない。ただ、高層建築だと書かれるだけでどのくらいの高さなのかイメージできないし、筒型のタワーの内側を数千体ものロボットが落下するイメージは茫洋としてなかなか具体的な像を結ばない。しかし、ネットで検索してみて、実際にヨハネスブルグにそのモデルとなったポンテ・タワーという建築物が建っていると知り、その異様ともいえる姿を写真で見ることで、ロボットの落下のイメージはとても具体的かつ強烈なものにかわる。
つまりこの小説は、小説を(テキストを)読むだけでは完結しないように書かれている。ある意味わざとらしいとも言える感じで、作品の最後に参考文献がいろいろと挙げられているのも、この小説が様々な情報の寄せ集めとして編まれていて、そしてそれは再び、(それを読んだ読者によって)様々な方向の情報へと散ってゆくべきものだということが意図されているのかもしれない。様々な情報が、たまたまこの小説という形に編み上げられ、ある世界観、世界像を一瞬の間だけ浮かび上がらせて、しかしそれはまたそれぞれの文脈へ還ってゆく。それによって小説は様々なイメージや文脈をその内に取り込むと同時に、様々なイメージや文脈へと拡散して消えてゆく。
短いスパンで簡潔に言い切っては、言い捨ててゆくようなこの小説の文章は、小説がそういうものであることを示すものかもしれない。
●「ロワーサイドの幽霊たち」は、9・11の被害者の一人と実行犯の一人が「融合する」という話でもある。被害者の方はおそらく創作された人物だと思うけど、実行犯は実在する人物だ。だが、実在する人物を小説家の想像力で膨らませるというようなことはしていないように見える。資料を読み込んでそれを再構成しているだけとも言える。しかしそのことが、この小説を支える想像力が「物語」としてあるのではなく、様々な切片的情報の交錯による世界観の提示としてあること、あくまでコラージュ的な仮どめとして成立していることを示しているように思った。この二篇の小説はどちらも、一瞬の交錯によって浮かび上がるものを捉えようとしている。小説の「核」となるものは具体的な細部にあるのではなく、いくつかのイメージ交錯によって浮かび上がる幻の方にあるように思う。