●『ヨハネスブルグの天使たち』(宮内悠介)を読んだ。
最初の二編(「ヨハネスブルグの天使たち」、「ロワーサイドの幽霊たち」)を読んで、これはすごいんじゃないかと興奮したのだけど、次の二編(「ジャララバードの兵士たち」、「ハドラマウトの道化たち」)で、最初に思ったのとは違った方向への展開に戸惑った。最初にあった、独創的な主題やイメージの提示から、急に通俗的な方向に流れてしまっているように感じられた。それでも、「ジャララバード…」は最初の二つの主題と切り離して独立した小説として読むのならば、力のある充実した作品だとは思った。でも、「ハドラマウト…」はイメージとしてもありがちだし、オチもありがちで、アニメなら割とよくある話という感じがしてしまった(というか、こういう題材を扱っていて、そういう「落とし方」で許されるのだろうか?、と感じてしまった)。そして、最後の「北東京の子供たち」に至っては、質の低い純文学みたいになっていて、えーっという感じになった。十四、五歳くらいのナイーブな文学少年が描きそうな紋切り型の感傷とイメージに浸されている感じで、この作品は最初の「ヨハネスブルグ…」と対になっているのだけど、だからこそ質の違いが歴然としてしまって、同じ作者が近い時期に書いたものとは思えないくらいの大きな落差があるように思う(スティーブとシェリルの関係を描く時の硬質な緊張感に比べ、誠と璃乃との関係の描き方がいかに感傷によってふやけていることか、と感じる、イメージもありふれているように思う)。
●最後まで読んだら、最初に感じた興奮の感触を忘れてしまって、自分が一体何にそんなに興奮したのかを見失ってしまった。しかし、最初はすごく興奮したのだ。
●この本は、DX9というロボットを巡る連作集だと言える。最初の二作は、作品が取り扱う主題、そこに描かれる世界のありよう、そのような世界に住む人物たちの姿、そしてDX9という架空の存在、の、それぞれの要素がすべて密接に絡んでいて、互いに対して互いの存在が必然的であるような形に編み込まれ、それによって非常に強烈なビジョンが示される作品だと思われた。
しかし三作目では、DX9は主題に密接に関わるというよりも作品を彩るガジェットの一つのような形へと後退する。前の二作では、DX9というイメージが、人間の存在を映す鏡のようなものであると同時に、人間とは根本的に異なる存在としてあって、その、鏡であり異物であるものの存在(との落差)を通して、人間にとっての「世界」(あるいは、人間と世界の関係)の決定的な変質のようなものが(とても独自で新しいやり方で)捉えられていたように思う。これは本当にすごく面白いし、新しいビジョンを示しているように思われる。
しかし三作目では、DX9とは直接的にはあまり関係のない形で、ある世界観(あるいは情勢)が描かれ、そこに新たにもう一つ「現象の種子」とよばれる物語装置が導入される。正直、このガジェット(アイデア)があまり面白くないとぼくは感じてしまった。一方で、あまりに複雑過ぎて誰にもどうにもならないような情勢を丁寧に描き出しているのに、それに対抗するようなカウンターイメージが、基本としてドラッグとほとんどかわらないような「現象の種子」では、ビジョンとしてそれはちょっとありきたり過ぎるのではないかと感じた。そっちに行くくらいならば、もっとDX9の方の可能性をいろいろと追求できるのではないか、と読みながら思った。
とはいえ、それは一作目二作目があまりに面白かったからそう感じるのであって、三作目は一つの転換点のようなパートとして考えれば十分ありだと思ったし、作品としての力も強いと思った。この後、四作目、五作目で、仕切り直して改めてこれまでとは異なるDX9の可能性を展開してくれるのだろうと期待した。しかし、四作目にも五作目にも、DX9の新たな可能性の展開はぼくには見いだせなかったし、単純に、作品としてのクオリティがここからガタッと落ちてしまうように思われた。
(二作目で示された「行動分析学」的なビジョンが、三作目でセリフとして示される「一人の死は悲劇だが百万人の死だと統計だ、その中間を見極めたい」というところに繋がり、その言葉によって「受けとめ」られているのは分かる。とはいえそれはただセリフとして言われるだけで、作品が「その中間」を見極めるような方向に展開してゆくわけではない。そのかわりに、「現象の種子」のような分かり易いビジョンの方に流れてしまうことに、ぼくはやや疑問を感じてしまった。
四作目において、複雑な状況の絡まりあいとしてあるはずの紛争の原因が、一人の人物の裏と表との対立であったかのように読める展開になってしまうのも納得できなかった。いや、けっきょく対立するようにみえるどちらの陣営も似たり寄ったりだということを示したいのは分かる気がするのだが……。そして、そのような図式をつくるための便利な道具としてDX9が使われていることにも、これまでの流れから考えると納得ができなかった。三作目ではザカリ―という米兵との関係の描写などもあってリアルに感じられたルイという人物も、四作目ではその行動にリアリティを感じられなくなってしまっていた。
五作目がとびぬけてつまらなかった理由の一つに、採用された参考文献がつまらない、ということもあるように思った。感傷と単純な図式化は繋がり易いと思う。あと、きれいに終わらせようという気持ちが働きすぎているのかも、とも思った。)
●これが短編集ということであれば、すごく面白い作品が二つ、まあまあ面白い作品が一つあったということでいいと思う。そして、すごく面白い二つの作品について深く考えればよいということになる。しかしこの本は、明らかに意識的に構成された連作だから、一冊で一つの作品として読んでしまうので、どうしても竜頭蛇尾という感じになってしまう。
例えば、連作の配置の問題として、もっとも弱い作品だとぼくには思われる五作目を二番目にもってきて、(作品としても、DX9の可能性---人間とDX9との関係のありよう---としても、アイデアとしても)非常に独創的で面白いと思われる二作目をラストに締めとして置いてやると、それだけでずいぶん一冊の本としての印象が違ってくるようにも思われた。ただそれだと、かなりシニカルな終わり方になってしまいはするけど。
●そうはいっても、「ヨハネスブルグの天使たち」と「ロワーサイドの幽霊たち」の二つにはとても驚かされたし、興奮させられ、大きな刺激を受けた。これらはすごい作品だと思う。