●毎日三、四時間ずつ、じっくりと『私のいない高校』を読む、というのを始めて四日目で、ようやく半分くらいのところに差し掛かり、生徒たちは修学旅行のために羽田空港に集まった。こちらの気持ちもどんどん上がってくる。
●小説における、登場人物の存在のさせ方という意味で、この小説は本当にすごいことをやっているのではないかと思う。無機的な記述しかないのに、時々ふっと、その存在が生々しく迫ってくる瞬間がある。あるいは、視覚的な記述がほとんどないのに、時々ふっと、印象的な仕草やアクション、あるいはイメージが、わっと立ち上がってる。紋切型の言葉しか書かれていないのに、その機能はまったく紋切型ではない。
描写によって人物や場面を肉付けするということとは、まったく別のやり方がなされ、しかし記述が進むにつれて、人物も世界も密度を増してゆき、その存在をリアルなものとしてゆく。
●担任教師、留学生、ホストファミリーの母親などは、場面によって異なる書かれ方をするが(留学生はその「名」が書かれることが最も少ない)、生徒は基本的にフルネームで書かれる。名前の字面がもつ記号性と匿名性(名前の匿名性って変な言い方だが)。しかし、だからこそ、例えば生徒奥富陽子が「ヨウコ」となる瞬間が感動的なものとなる(読んでいて「おーっ」と声をあげてしまった、というか、いろんなところで声が出てしまう)。あるいは普段ホストママと書かれていた宝田夫人が、いきなり宝田幸子と書かれると、まるで生徒であるかのように錯覚してしまう(この場面は重要)。
青木淳悟の小説では、書かれていることも勿論重要だが、書かれていないこと、当然書かれるべきなのになぜか欠落していることがとても重要で、それはこの小説でも変わらない。いろいろなことが(あきらかに意図的に)欠落している。しかし欠落は、この小説ではしばしば(よほど注意しないと)意識されない。この気持ち悪さ。
●主語が省略される文にはしばしば一人称的な感触が生まれる(主に担任)。しかしその主語の省略が、しらない間に行われる視点の移動を成立させ、世界そのものの基底を歪ませる(Aの視点から語り出された事柄がBの視点に着地する)。しかも、その基底の歪み(視点の移動)はしばしば意識されないほどにスムースであり、とはいえ揺れは感知されるから、知らないうちに船酔いさせられているような感じになる。
●そのような、意識されない程にスムースな視点の移動がある一方、不自然さや不連続、ぎくしゃくした繋がり、あきらかに「変な文」などが混じる。一定の調子を保って進んでゆくことが困難だ。あるいは、一定の調子で進んでしまっては見えないものがたくさんある。この小説では、いままでのようには、欠落や不自然さやぎくしゃくした感じが前景化されていないので、油断をすると一定の調子で進んでしまうから、後者の言い方の方が適当か。
●時間の混乱と重複、そして欠落。日付がきちんと示されているにも関わらず…。日付の意味と無意味。あと、小見出しの付け方も変。しかしこれも、『四十日と四十夜のメルヘン』のように、あきらかな混乱には至らない。意味・内容の次元では(表面的には)謎や破綻はない。しかし「流れ方」がおかしい。
●留学生の存在によって、カナダ-ブラジル-ポルトガルと展開してゆく流れが、生徒たちの修学旅行先である長崎、平戸と交錯することで、種子島-大航海時代-スペイン-コロンブスにまで拡張してゆく時、思わず、『赤の他人の瓜二つ』との交錯を感じてしまう。青木淳悟の小説には、磯崎憲一郎の小説との不思議な交錯がある。「このあいだ東京でね」の中盤で忙しいビジネスマンがタクシーに乗って作中を通り抜けるのを読むと、『終の住処』の主人公が「このあいだ東京でね」の中を通り抜けたとしかぼくには思えない。
●ゲラで読んでいると、本よりも余白が大きいし、真ん中にページの断絶がないので、書き込みがしやすいし、たくさん書き込める。