●ちょっと気になったので(もしかしたら面白いかもと思ったので)三島賞となった『こちらあみ子』(今村夏子)を読んでみたのだが、表題作は、面白いところは多々あるし(兄が田中先輩として回帰するところとか、隣の席の男子の存在とかとても面白いし、視点人物の世界に対する乖離の感触というか、接続不良のように世界が遠くもどかしく、常にすれ違ってしまうような感触もリアル)、たいへんうまくつくられている小説だとは思ったけど、どうしても引っかかる感じがあって、それを全面的に肯定的には受け取ることは出来なかった(要するにこの小説は叙述トリックが仕掛けられていて、あらかじめ作者によってコントロールされている「信用できない語り手(一人称で語られているわけではないのでこの言い方は正確ではないが)」の記述がもたらす世界の欠落は、真のブランクとはなり得ず、意図的に仕組まれ隠された「謎」でしかなくて、それはどこか世界を狭く限定するような堅苦しさを感じさせるものだし、しかもその視点を知的に障害がある人によって担わせるというのは、あまり感じのよいものではない)。
だけど、同時に収録されている「ピクニック」がとても面白くて、これを読むことで表題作に対する感じ方もかなり変わった(両作とも、世界の接触面との接続不良というか、世界への遠さ、届かなさ、もどかしさの感触が強くある。そういう肯定的な側面の方を強く感じるようになった)。冒頭の一文からして表題作とは違って風通しがよく、全編を通じてなんというのか「気持ちの悪い伸びやかさ」みたいな感じがずっとあって、高度に技巧的であるのと同時に、あきらかに行き当たりばったりで書いている感じもある(あらかじめ世界設定や物語の枠組みの設定があるのではなく、世界への乖離的な距離感と人称操作の感覚-感触だけを頼りに書き進められたのではないか、と感じられる。「ルミたち」という集合的な視点の気持ち悪さは、小説的な技巧であると同時に、人間関係のなかでの実感としてあって、その両者が抗争しつつ、接点が探られながら書かれたのではないか、という感じ)。微妙に嫌なところに注目する感じとかが、軽く神経に障りつつも露悪的にまではならなくてどこか風通しがよく(でもこの「風通しの良さ」は半ば意識的な鈍感さでもあると思うけど)、しかし汗ばんでペタッと引っ付く肌のような気持ち悪さが同時に持続してずっとある。あらかじめ設定された枠組みのなかで人物が動いたり謎があったりするのではなく、書く-読むことによってその都度世界が生まれ、動いてゆく感じが、表題作よりもずっと強くある。だからこそこちらの(七瀬さんの)欠落(ブランク)の方が、あみ子の欠落よりも不気味でリアルだと思う。ただ、七瀬さんを最後にもうちょっとちがう場所にまで連れてゆくことは出来なかったのだろうかとは思う。あみ子には友達がいるけど、七瀬さんの欠落は七瀬さんを孤独に閉じ込めてしまう。そういう意味では、(殴られて歯を失う)表題作の(あみ子の欠落)方が世界に対して開かれていると言えるのかも。
表題作を、改めてもう一度ちゃんと読み直さなければいけないと思った。ここまで書いて来てふと、もう一度読み直したら、表題作と「ピクニック」に対する感じ方が、もしかしたら逆転してしまうこともあるかも、と思った。いや、実際に読み直してみないとわかんないけど。