2020-11-27

●ちょっと必要があって、佐々木敦「半睡」(「新潮」4月号)を読み返していた。この小説には様々な仕掛けが埋め込まれていて、最初に読む時は、それらをひとつひとつ丁寧に確認し、解読しながら読み進めるのだけど、二回目なので、(すべてではないとしても)仕掛けの大半は既に読まれていて、様々なメモが本に書き込まれているから、割とすいすいというか、なめらかに読みすすめられるから、ごく普通に小説世界に没入していけて、つまり素朴に普通の小説として読むのだが、そのように読んで改めてとても面白かった。

一面でとても仕掛けや企みの多い小説だということも確かなのだが、もう一面では、この小説は普通に、愛、隠蔽(秘密)、嘘、不貞、後悔、罪の意識、記憶の欠落、そして死をめぐる、センチメンタルな恋愛小説でもある。そして、ゼロ年代の東京の文化的風俗を映す小説でもある。

文學界」の「新人小説月評」で、ぼくはこの小説について次のように書いた(ネタバレの回避と、短い字数に無理矢理詰め込んだこととで、妙に難解な言い回しになってしまっているが)。

佐々木敦「半睡」(新潮)。フロイト『夢判断』七章の夢解釈に対するラカンの再解釈がある(『精神分析の四基本概念』五章)。息子を亡くした父親が遺体の隣の部屋でうたた寝して夢をみる。息子が父の傍らで腕を掴み「父さん、僕が火傷するのが分からないの」と責める。目覚めると、弔いの蝋燭が倒れて棺に燃え移っていた。フロイトはこの夢を、父は前意識で火に気づいていたが、息子と再会する夢が睡眠を長引かせた(夢による願望充足)と解釈する。対してラカンは夢こそが父を目覚めさせたとする。父には息子との関係において意識から排除された(記憶に回帰することのない)レベルの(死因にもかかわる)後悔があり、その関係の不調(現実)が「責める口調」として夢に入り込み父はその現実から逃れるために目覚めた。それは覚醒した現実(表象)の中では出会うことのない、夢という形のもう一つの現実であり、夢から覚醒への移行の中で「出会い損なうように出会う」ことしかできない意識の空隙としての現実である、と。

本作は小説の外(現実)にある日付、作品、出来事へ向かう多数の参照に満ちている。しかし、現実=覚醒への過剰な参照はむしろ記述とそれが依って立つ基盤としての現実とのつながりを危うくし、語り(記述)への不信を招く。話者が読者にとって信頼できないというより、話者自身が自分の記述(意識)を信頼できていない。

だがあからさまな隠蔽は隠蔽ではなく、解読可能な暗号は明示と変わらない。夢としての現実は、解読格子そのものを歪ませ瓦解させる力としてある。夢としてしか現れない現実があるとすれば、不眠とは夢=現実を剥奪され、(夢へと)目覚めることの出来ない宙づりの「目覚めへの過程(半睡)」を強いられることであり、目を見開いたまま現実を遮断されることである。半睡と不眠は反転して同値だ。夢としての現実は目覚めた意識(記述)にとっては空隙としてしか現れない。だが、半睡=不眠とは常に目覚めへと向かう過程にあることでもあり、意識(記述)は積み重ねられることにより「塗り残し」として空隙=現実の在処をあぶり出し、暗示することになる。》

●この小説の「一日目」とは、2012年3月1日の木曜日であり、二回の断絶を挟んだ「十日目」は、2020年3月10日の火曜日となるはずで、「十一日目」は2020年3月11日となる。ちなみに、この小説が掲載された「新潮」4月号の発売は2020年3月7日なので、過去からはじまった記述が現在を追い抜いていくというつくりになっている。

とはいえ、この小説で起る主要な出来事は、ほとんどが2012年3月1日以前に既に起きていたことで(最初の出来事は1986年、チェルノブイリ原発の事故の年の出来事だろう)、この小説の最後(2020年3月11日)に起ることもまた、2012年3月1日の時点で既に話者によって決意されていたはずだ。つまり、この小説=手記は、最後に行われる行為の、決意から決行までの間に書かれたものであり、書く行為は、決行の先延ばしのためのものであり、決意を固めるためのものでもあるだろう。

(12年間---追記、12年は間違いで8年---で起きた決定的な出来事は、Y・Yの死、くらいではないか。)

極端なことを言えば、最後の行為は2012年3月1日に行われていたとしても不思議ではなく、話者=主人公は、12年(ではなく8年)かけて最初に位置に戻ってきたことになる。その意味で、この小説=手記の意味は「振り出しに戻る」であり、ある意味ゼロであろう(「振り出しに戻る」という構造は、作中作である『フォー・スリープレス・ナイト』にも埋め込まれている)。

●とはいえ、ぼくがこの小説で最もリアルだと感じるのは、(「新人小説月評」にも書いたが)様々な仕掛けの隙間から聞こえてくる、濃厚な欠落の気配であり、語り手自身が、自分自身の語り---覚醒した意識---を制御できず、信用もできていないという感触だ(追記、周到で綿密な意識的企みと、意識に対する根本的な不信との、両方がある)。たとえば、内田百閒、鈴木清順山本直樹七里圭の作品を貫いている共通の場面(瀕死の状態にある人について、まだ望みがあるのではないかと会話している時に、どこからか出所不明の「駄目だよ」という声が聞こえてくる)について、話者=主人公はつぎのように書く。

《(…)けれども結局のところ、もっとも怖いのはやはり、それでもそれを言ったのは「私」だったのだという解釈ではないだろうか。私は、私でない私の酷薄極まる声を聞いたのだ。》

●それとは別に、この小説のなかで忘れがたいのは、2003年のマイケル・ジャクソンの逮捕と裁判にかんして書かれた、次のようなくだり。ここで問われているのは「知る」ことによって変わる、ということであり、倫理ではないことに注意。

《この場合は音楽であるわけですけど、そのひとが創り出したものは異論の余地なく圧倒的に素晴らしく、その素晴らしさはまさに永遠のものであると思えるのだけど、しかしそれでも、そのひとが何か絶対に擁護することのできないような非人道的なことをしたり言ったりしてしまったとき、そのひとが創った沢山の素晴らしいものでさえも俄に色褪せて、価値を失ってしまう、ということがあり得ますよね、これはもう、どうしようもないことに、とNは言った。そうだね。(…)でも考えてみると、それはそれでずいぶん身勝手というか残酷な振る舞いではあるけれど。どうしてですか? だってさ、まあその致命的な瑕疵が何であったかということにもよるわけだけど、もしもそのことを最後まで知らないままだったなら、そのひとへの高評価は揺るぐことはなかったわけだよね。けれどもしかし、その事実はすでにとっくに存在していたとする、ただ自分が知り得なかっただけで、それはずっとそこにあったんだ。もちろんそれはそういうものなんだから仕方がないと言えばそれまでだよ、われわれはどうしたって全知ではあり得ない、神目線ではないわけだから。知らないままだったほうがいっそ幸せだったのにという見方だってあるかもしれない。でもそれって本当はどこかおかしいよね。知らぬままなら相手を否定せずに済んだというのも変だし、知った途端に何もかもがひっくり返るというのもやはり変だ。》

 (追記。この小説には様々な欠落があるが、ひとつ、あからさまに分かりやすい欠落に「オリンピック」があるだろう。閏年小説でもある本作で、オリンピックの痕跡が徹底して排除されているのは、おそにく意図的だろう。)

(閏年は、正確に四年に一度あるとは限らず、グレゴリオ暦では、400年間に97回の閏年がもうけられている、ということを知った。)