2020-11-28

●「半睡」(佐々木敦)で、話者=主人公がMと再会したのは2001年だと特定できるが、Nと出会ったのがいつ頃かは書いていない。マイケル・ジャクソンについて語り合うのは2003年であるはずだから、その頃に頻繁に会っていたことは確かだろう。主人公は、1986年に11歳なので、1975年生まれだと推定される。2003年には28歳だ。Nは主人公を「先輩」と呼ぶ。同じ大学の同じサークル出身だとしても、大きく歳の離れた男性を「先輩」と呼ぶとは思えないので、二人の年齢はそれほど離れていなくて、Nと主人公とはそれなりに若い頃に出会っているはずだろう。

(この小説=手記が「書かれているとされている日付」を考えると、いちばん古い2012年でも、主人公=話者は三十歳代後半なので、なんとなく読んでいると、おじさんが、大学在学中の若い女性であるNと出会ったかのような印象をもってしまう---おそらく意図的にそのような印象をもたせようとしているとも思われる---のだが、そうではない。ぼく自身も、最初は「先輩」という呼び方に強い違和感をもった。)

まず、主人公とMとの関係が描かれ、ついで、Nとの関係が描かれるが、小説の最後で、ほんとうは順番が逆なのだ、と書かれる。だとすると、Nとは2000年前後くらいに出会ったと想定できる。Mは主人公に向かって、あなたが他の女と会っていることを知っていると言う。つまり主人公は二股をかけていたわけで、それはこの小説が『ノルウェイの森』を意識して書かれており、Mが「綠」でNが「直子」であると考えられるとすれば、明らかだろう。

しかし、主人公=話者は、二股については一切触れない。しかしその事実を「隠している」とも言えない。この小説は、いかにもそういう感じの雰囲気で書かれているし、書かれた事実を照合すれば、二股をかけていたとしか思えないように話が組まれている。つまり、あからさまに提示されているのに、直接的には言及されない。あるいは、常識的に考えればそうだという蓋然性が髙いが、「そうだ」と断言できるというほど明らかなわけではない。ここでは、あきらかに重複していると思われる出来事の推移が、あたかもバラバラに進行しているかのように書かれている。

別の言い方をすれば、Mと付き合っている世界線と、Nと付き合っている世界線とが、同時並行的にすすんでいるかのようだ、とも言える。たとえば、読んでいる途中では、Y・Yの教え子で、小説『フォー・スリープレス・ナイト』のヒロインのモデルとは、Mではないか思うのだが(専攻はぼやかされているが、Mは大学院に行っているのに対し、Nは学部を卒業した後、ライターとか編集とか、そういう仕事をしているっぽく描かれる)、最後まで読みすすめると、Nであろうという結論になる。ということはつまり、Mでもあり、Nでもあり、同時並行的であり、排他的でない、ということなのだ。

しかしそのことは、二股という事実(への後悔)をなかったことにするわけではない(つまり、排他的ではない、と同時に、排他的でもある)。この小説には終始一貫して「罪の意識」のような感情が響いているが、それは「二人を救えなかった」ということに対するものであると同時に、それ以前の「関係のあり方そのもの」に対する後悔でもあるように感じられる。そこにはおそらく二股という事実があるのだろうと思われるが、もしかするとそれ以上のなにかが隠されているかもしれない(とも、思わされる)。たとえば、Nのいとこの自死にかんするエピソードや、マイケル・ジャクソンにかんする対話などから、「隠された(明かされない)罪」の存在が強く匂わされる。

(この点にかんして、フロイトの『夢判断』の夢解釈に対するラカンの再解釈が想起される。)

(マイケル・ジャクソンにかんしては、2005年にすべての起訴事実にたいして無罪の判決があり、告発されたような事実はなかったとされている。念のため。)