柴崎友香「ここで、ここで」(「群像」10月号)。これ、けっこう難しいというか、複雑な小説だなあと思った。さらっと読むと、いくつかの印象的な場面がゆるい関連性によって並べられているように思えるけど、よくみると、そのモンタージュ(場面と場面、主題と主題の関係づけ)は、実はかなり厳密になされているようにみえてくる。
それと、戸惑うのは、これがいわゆる「私小説」みたいな形式で書かれていること。素朴に読むとこの小説の話者「わたし」は作家本人であるように読める。ぼくの記憶では、この作家はいままで、一人称で書く時も常に架空の人物を設定してその人物の身体の動きや主観を通して世界を記述してきた。だがこの小説ではそのような媒介的な人物を設定せず、あたかも作家本人が自身の経験として身辺雑記を書いているかのようになっている。しかしそこには、文の構成や描写の充実(それらによってつくられるある距離感や練られた感じ)によって「小説」としてのフィクショナルな次元が成り立っているように感じられる。つまり、架空の話者は存在するのだが、それが現実に存在する作家自身と混同されるかのような形式になっている。この距離感の変化も重要な気がする。
●まず、「なみはや大橋」の上で突然訪れた恐怖感の経験が語られる。この場面で話者の関心は、ほぼ周囲の風景や出来事と自身の身体の移動に集中している。つまり、今、何が見えていて、自分がどう動いたら、別の何かが見えるようになった、という事柄ばかりが詳細に語られる。それを見ている自分がどんな人物で、なぜそんなことをしているのか、には触れなれない(ただ、風景に刺激された回想や、高いところが全然怖くない理由などは語られる)。《とてもいい眺めだ》《橋はおもしろいように高くなった》《風景は素晴らしくなった》という風に、主観的な感想(わたしの気持ち)はごく簡潔に切り詰められる。
しかしある時、《橋が水の流れと反対方向にゆっくりと動いたように》感じ、その、足元が揺らぐような感覚が起きた瞬間から、それまで何ともなかった高さが恐怖にかわる。
《突然、一歩も動けないどころか、指先さえ動かすことができなくなった。全身から血の気が引き、膝の力がぬけた。
ほんの少しでも動いたら、あっさりとこの適当な柵を乗り越えて海に飛び込むことができる、と思った。歩道を歩いている人はいないし、簡単にわたしはそうすることができる。自分が飛び込むのを止められる気がしなかった。誰も気づかないあいだに実行する。》
この時ほとんどはじめて、話者は自分の内側へと関心を移動させる。しかしこの内側とは、内面とか気持ちのようなものではない。それは、そのような自分とは別に働いている神経系的、生理的な次元で作動している「わたし」である。そのような「わたし」は、坂道にかかれば自然にからだの重心を前に移動し、倒れそうになれば咄嗟にバランスを立て直そうとする。それは意識が介在しないところで働くシステムであり、意識によって制御できない(勿論、無意識とかエスというものでもない)。神経系のシステムは感覚入力を意識(や言語)を通さない次元で(いわば勝手に)処理して解釈し、ある状況(近くや感情)を脳のなかで構成する。例えば、後ろにマットがあることは事実として分かっていても、からだをまっすぐにしたまま後ろに倒れる時の「恐怖(抵抗感)」はなくならない。意識で恐怖を克服することは出来ても、なくすことは出来ない。ただ、複数回、後ろに倒れることを繰り返すこと(身体的なエクササイズ)で、そのシステムが(勝手に)学習して、その解釈と構成原理を修正し、恐怖は減少するだろう。おそらく、恐怖、不安、緊張、あるいは安定、充足などといった根源的なリアリティの多くの部分や、空間や時間の感覚は、このようなシステム(陰に隠れて買ってに作動するもうひとりの自分ではない自分)に操られている。
ここで起こったことはおそらく、感覚入力に対する解釈の体系の変化が、あるきっかけで唐突に起こってしまって、それまでなんともなかった、それまでと何も変わらない入力から、まったく別の出力(恐怖)が生まれてしまったということだ。そして、ここで話者の関心は、内側とはいっても、そのような「自分ではない自分」に向けられている。あるいは、自分ではない自分が「動いた」ことにうろたえている。
そして、そのようなパニック状態は、パニックでなければ何ということもない「こんな柵なら乗り越えることもできるだろう」という(簡単に否定できる)可能性の感覚でしかないものが、「柵を乗り越えよ(ねばならない)」という否定が困難な命令の言葉として強く響くようになる。この命令は、勝手に解釈を変えた神経システムとはまた別の「自分ではない自分」である、「言語」という次元からやってくるものだろう。
しかしそれは、ここで捉えられていることの半分に過ぎない。この小説の主題系で外せない重要なことは、ここで話者が一人でいて、話者の存在を誰も見ていないということだろう。(1)高さの感覚が恐怖へと唐突に変化したこと、そして、その恐怖によって可能性が命令に変化したこと、と、(2)それを止めてくれる「誰か」が「ここ」にはいないということ、とは、また別の問題であるように思われる。引用した部分の二つ目の段落の最後に付け加えられる、それを《誰も気づかないあいだに実行する》という恐怖感(というか、断定的な感じ)は、この文に主語が抜けているだけにいっそうコントロール不能な強い力として、「高さ」の恐怖や「命令」の抗い難さとはまた別ものとして浮上している。両者の複合によって恐怖は倍増するであろう。
今後この小説では、(1)と(2)の二つの問題系(主題)が、変奏され展開されてゆくことになるだろう。そしてそこには、全体の構成(モンタージュ)によって生まれる、独特の時間的な効果があらわれるはずだ。
つづく。