●『紫色のクオリア』(うえお久光)というラノベが面白かった。たまたまみつけた「山本弘のSF&トンデモNight 語り尽くすぞ、ライトノベル」というUST録画で紹介されているのを観て興味をもった(山本弘さんの小説は読んだことないです)。
http://www.ustream.tv/recorded/26439407
以下、どうしてもネタバレを含まざるを得ないと思いますが、ネタバレによって面白さが減じるような小説ではないと思います。
●「毬井についてのエトセトラ」と「1/1,000,000,000のキス」という二篇と「if」というエピローグからなる。おそらくSF好きの人には「1/1,0…」が高く評価されるのだろうし、確かにすごいのだけど、ぼくは「毬井…」がかなり好きだ。
●「毬井…」は、自分以外の人間(というか生物)がすべてロボットに見えるという女の子の話。ここで面白いのは、たんに「そう見える」だけでなく、この女の子にとっては「世界が実際にそうなっている」という点。とはいえ、世界が「そうなっている」のはこの主人公の女の子に対してだけで、他の人にとっては、人間は普通に人間として存在している。
毬井という女の子について、その友人である波濤という女の子の一人称で小説は語られる。つまり、物語は、この子には世界はそう見えているらしいというところからはじまる。しかしこの小説が面白いのは、たんに世界の相対性、あるいクオリアの交換不可能性だけが問題になっているのではなくて(そのような意味でこのタイトルは不適切だと思う)、それぞれ異なる(相容れない)はずの世界が相互に干渉し合っているというところだ。
毬井という女の子はプラモデルを組み立てたり、家電製品を修理したりするのが天才的に得意である。そして、この子には、人間もまた、そのようなものと連続的であるように見えている。そしてある日(急に飛躍するけど)、話者の女の子が殺人鬼から狙われて左腕を切断されてしまう。毬井にとっては人はロボットであるから、友人の切断された左腕を、まるで家電製品を直すかのようにして、元通り繋いでしまうことができる。だが、話者の波濤にとっては、自分の腕は機械ではない。なのに彼女にとっても左腕は傷痕も残らずに元通りになっている。これが、実は毬井という子が見ている方の世界が「正しかった」(人間=ロボットだった)というオチだと面白くもなんともなくなる。二つは等価であり、そして相容れない、にもかかわらず干渉し合うことが可能だ、という点が面白い。
この時、左腕の破損が激しかったため、毬井は元通りの腕にするために波濤の持っていた携帯電話を分解してパーツとして使う。波濤の側の世界では、人間の肉と携帯電話のパーツは連続的ではないが、毬井の世界では連続性がある(どちらも同様のパーツでできている)。この二つの世界の食い違いは、毬井の側の世界において「左腕というシステムの整合性」が成立することによって、波濤の世界での整合性も成立するという形で吸収される。肉と金属部品というマテリアルの食い違いは、「左腕というシステム」という共通性によって不問に付される。こういう感じがぼくにとってはすごく面白い(ぼくの理解では、この感覚はデュシャンにとても近いように思われる)。しかし波濤の左腕は、それでも以前とまったく同じというわけにはいかず、別の世界(別の体系)が一部混じっていて、左腕に携帯電話の機能が付加されることになる。そしてこれが、次の話につながる。
●「1/1,0…」は驚くべき話だ。「シュタインズゲート」の展開に「まど☆マギ」のラストがくっついて、さらにそこから一歩すすむみたいな話になる。この本が出たのが2009年だから、「シュタゲ」のゲーム版の発売と同じ年であり、「まど☆マギ」よりずっと早いことになる。
「毬井…」と同じく波濤が話者だが、こごでは主人公も波濤となる。なんと波濤は、左腕に埋め込まれた電話機能によって、すべての可能世界(並行宇宙)にいる自分との対話が可能になる(さらに自動的に意思疎通もできるようになる)。いわば、人間量子コンピュータになって、無数の自分による無数の世界での(思考と行動の)並列処理ができるようになる。その能力によって、殺されてしまった(!)毬井が「殺されない」世界を探し出し、それを現実として「確定」させようとする(確定される前の無数の「並行世界」は、波束が収縮する前の電子――生きていると同時に死んでいるシュレーディンガーの猫――と同様に可能性として存在するということになっている)。この展開はまさに「シュタゲ」を思わせるのだけど、「シュタゲ」ではあくまで一人の人物が、その都度タイムリープを繰り返すことによって複数の世界を何度もに分けて経験する(その過程が線的な物語として語られる)のだけど、この物語では、一人が既に同時に多数であり(縦の繋がりと横のつながりが同時に意識され)、無数に並列的にある可能性としての自分が常に連絡し合っていて、その「どれ」にも瞬時にスイッチングするように切り替えできることになっている(原理上無限に拡散してしまう「わたし」を物語的に制御する方便としてフェルマーの原理が出てくるところも面白い)。そしてこの「わたし」はさらに拡大しつづけ他者をも巻き込み、最終的には「まど☆マギ」のラストのように全宇宙とほぼ等しくなるところまでゆく。とはいえ、最後にはちゃんと、人が感情として納得できるようなわかりやすいラストに収束するのだけど(この「常識的な収束」は、この作品に関してはけっこう重要かもしれないと思った)。
ここで面白いのは、人間量子コンピュータとなった「わたし」の思考過程を、小説としてどうやって記述するのかというところだろうと思う。それがどの程度まで出来ているのかはともかく(ぼくにはそれを判定するだけの知識はないけど、でも、それもかなりのところまでいってるんじゃないだろうかと思われる)、こういう話がラノベとして普通に成立しているというのは相当すごいことではないか(ぼくが買った本は七刷になっているから、それなりの数は読まれているはず)。
ファインマンの「量子力学を使える者はいても、量子力学を理解している者はいない」という言葉は有名だけど、この「理解する」の「深さ」がどの程度のものであるのかはともかく、こういう物語が、(イーガンのような高級っぽい感じのSFだけではなく)ラノベやアニメやゲーム(ゲームのことは何もしらないけど)から多数出てきているということは、二十世紀初頭の物理学の革命から百年くらい経って、そろそろそれが、世界の基底(時間や空間)に対するわれわれの感覚を大きく変化させはじめているのではないかという気がするのだけど…。