●何かものを見るためには、そのものが発光しているか、光を当てて反射させる必要がある。しかし、光を当てるという行為はわずかながらもそのものに影響を与える。観測するためのもの(光)が観測対象に影響するので、光を当てる前の「対象の状態そのもの」を観測することはできない。この影響は些細なものだが、一定以上に小さい対象を観測するときには無視できないものとなる。
ポピュラーサイエンスの本ではしばしば、このことがハイゼンベルク不確定性原理の基礎として説明されるが、それは間違いだと『見て楽しむ量子物理学の世界』のジム・アル・カリーリは書く。これでは古典物理学のイメージとかわらないではないか、と。そうではなく、不確定性原理は「位置の波動関数」と「運動量の波動関数」のと関係から生じるのだ、と。そしてなんと、ハイゼンベルク本人もまた同じような間違いをしていて、不確定性原理は間違いから導き出されたのだという。
ハイゼンベルクは、電子の位置を正確に示すには、ガンマ線の光子がそれにあたってはね返り、顕微鏡のレンズを通ってこなければならないとしました。これは正しい主張です。しかし、そうすると光子は電子に「キック」を与え、電子の運動量を変化させます。顕微鏡の分解能と光子の波長などを考慮することで、彼はいわゆる不確定性関係を導き出すことができました。不確定性関係とは、電子の位置の不確定性を表す数と、運動量の不確定性を表す数の積が常にプランク定数の値より大きくなるということです。(略)したがって、粒子の位置とその運動量のどちらか(あるいは両方)は常に不確定です。》
《しかし私たちは、不確定性関係が粒子の「位置の波動関数」と「運動量の波動関数」の関係から生じることを見てきました。ハイゼンベルクの例は波動関数の話よりはるかに単純で、より直感的に見えるかもしれませんが、彼は重大なポイントを無視しました。彼が導き出した議論は光子の波と粒子との二重性に依存していますが、電子をまるでそれが点粒子であるかのように扱っているのです! 電子と光子の両方を対等に扱う必要があります。》
《電子のようなものを見ようとするとき、私たちはどうしてもそれを乱すことになります。しかし、それは不確定性原理の起源ではありません。それは不確定性原理への追加なのです。不確定性原理ハイゼンベルクが示した例より量子の世界の特徴としてはるかに基本的なものであり、波動関数の性質を理解しなければ理解できません。》
●この本では、決定論的なニュートン物理学と違って、量子の世界は非決定性があると書いてある。だが、シュレーディンガー方程式そのものが非決定論的だというわけではないという。にも関わらず非決定論性が生じる。ここに「測定問題」がある、と。
シュレーディンガーの方程式は実は完全に決定論的です。ある時刻の波動関数が与えられれば、シュレーディンガー方程式を解き、未来の任意の時刻に対する値を計算できます。確率という概念が現れるのは、私たちがペンと紙を置き、コンピューターのスイッチを切って、測定時の波動関数からわかることに基づいて、測定の結果に関して実際の予測をしたいときだけなのです。》
《(…)研究対象の量子的な系に何らかの測定をするとき、シュレーディンガー方程式から私たちが見るものへ移行することをどのように考えるべきかということについては、量子力学の形式的な体系は何も語っていません。》
シュレーディンガー方程式」から「私たちが見るもの」へと移行する間にあるもの(ギャップ)が「測定問題」と呼ばれる。
《ボーアは、測定には量子系が測定する装置と相互作用するときに起こる「不可逆的な増幅の行為」と呼ばれる謎めいた過程を含んでいると考えました。決定的に重要なのは、ここで言う測定装置は古典物理学によって表されなければならず、したがって量子的な物体ではないということです。しかしこの測定の過程は、どのように、なぜ、いつ起こるのでしょうか? (…)量子の規則に従う量子系と、測定装置とみなされる古典系をどこで区別すればよいのでしょうか? 》
●これはたとえば「シュレーディンガーの猫」という形で表現されるものだ。箱の中の猫は、生きているか/死んでいるか、で、それを外の我々はフタをあけるまで知らないだけ(常識)と言うべきなのか、猫は、生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの存在で、「フタをあけて中を見る」という行為によって、どちらか一方に「収縮する」と言えるのか。これは、放射性原子核というミクロな状態と、生きている猫というマクロな状態とがからみあっているという想定は成り立つのか、波動関数と重ね合わせの「量子的な領域」と観測によって確定される「古典的領域」の境界を明確に定めることはできないのではないか(「猫」は量子的状態にあるのか、古典的な観測者なのか)、という問いであろう。
ボーアやハイゼンベルクはこの問いに答えず、ただ「フタをあけて調べるまで猫の(実在の)状態については何も言えない」、「フタを開こうとするその時に、猫がどの程度の割合で生きていそうであるのかを予測するのに、波動関数が使えると言えるだけだ」、としたという。
さらに重要な問題がここにはある、と。量子力学に従えば、測定の結果として猫のあり得る可能な状態は、「生きている」「死んでいる」のほかに「生きていると同時に死んでいる」と三種類あることになるが、実際には三つめの状態が観測されることはない。これをどう考えればよいのか。これに関する物理学者の態度は単純なもので、現実的でない予測は無視する、ということらしい。《その点で量子力学の形式はとても明白なのです。量子力学は、意味のある測定結果だけが許容されるという仮定を採用して、矛盾を回避します。》しかし、「現実的ではないことは無視」という態度に、量子的状態から古典的状態への飛躍(断絶)があるようにも見える。
●ジム・アル・カリーリは、測定問題は結局、相互に関連する二つの問題として捉えられる、と書く。(1)マクロな系の状態で、識別可能な重ね合わせの状態(死んでいると同時に生きている猫など)を決して見ることができないのはなぜなのか。ミクロな状態ではそれが実際に(干渉計や二重スリット実験によって)見えるのにもかかわらず。(2)測定されたマクロな状態において、複数ある可能性が排除され、一つの結果が得られる時(猫が、「死んでいる」でも「死んでいると同時に生きている」でもなく、「生きている」という結果が出る時)、それ以外の「可能性」はどのようにして排除されるのか。
この本では、(1)の疑問についてはデコヒーレンスによって説明されたと言えるが、それでも依然として(2)の問題は残っていると書かれている。量子力学は結果を正確に予測するが、(2)について(どのようにしてそれが起こるのかについて)は、何も語らない(だから様々な「解釈」があり得る)。非決定論的と言われるのは、(2)の問題によるのだろう。
●デコヒーレンスについて。
《一九八〇年代と一九九〇年代に、この問題の前半の部分は解決されました。最初は孤立していた量子系、たとえば重ね合わせの状態にある一個の原子のような量子系が巨視的な物体とからみ合うときに起こることを、物理学者は認識するようになりました。無数の原子たちからなる複雑な系の異なる状態の重ね合わせは持続せず、たちまち消えてしまうことがわかりました。たちまちデコヒーレンスが起こるということです。これは次のように理解できます。巨視的な系のすべての原子間の相互作用のさまざまな可能性の組み合わせのために、微妙な重ね合わせが、途方もなくたくさんある可能性の重ね合わせの中に、回復できないほど紛れ込み、失われてしまうというものです。》
《もっとわかりやすく言えば、量子の重ね合わせが外部の世界とからみ合うと、量子の奇妙さがすべて外に漏れてしまってたいへん迅速に失われるので、その奇妙なふるまいが顔を出すことはもはや決してないということです。》
シュレーディンガーの猫が死んでいると同時に生きているのが見えない理由は、箱を開くずっと前にデコヒーレンスが箱の中で起こるからです。これは、猫を含まない、放射性の原子核と毒が入った装置によって、とても早い段階で起こります。》
《(…)一個の原子が干渉計の一つのアームにあるかどうかを検出器で記録するケースや、一個の原子が二つのスリットのうちどちらを通り抜けているかを検出器で記録するケースです。この場合はもっと簡単に説明できます。検出器は、原子の位置に関する情報を得るために、原子の波動関数と関連を持たなければならず、そのからみ合いにはすぐさまデコヒーレンスが起こります。私が「原子」と言わずに「原子の波動関数」と言ったことに注意してください。というのは、検出器が原子を記録しなかったということは、原子が別の経路を進んだことを意味するからです。すなわち、原子を記録しなかったということも、干渉縞を破壊する「測定」なのです。このため、たとえ検出器と原子とが古典的な意味では決して物理的に接触しなくても、それでもなお、検出器と波動関数とのからみ合いがあるのです。》