●「日経サイエンス」七月号の量子ベイズ主義についての記事を読んだ。
波動関数は例えば電子がある位置に存在する確率を導き出す。それを「電子が確率的に存在する」と解釈するといろいろ問題が出てくる。ところで確率には二種類の考え方がある。一つは頻度確率で、例えば、コインを投げて表が出る確率は二分の一だという時、コインを何度も何度も投げ、その回数が多くなるほど正確に二分の一に近づく。これは再現(再帰)性に基づいていて、科学的な像(例えば実験など)と親近性がある。もう一方、ベイズ確率は違う。例えば、オバマが、ビン・ラディン急襲が成功する確率は55対45だと評価した、という時、それは、ビン・ラディン急襲を百回行えば55回成功するということではないだろう。ビン・ラディン急襲は一度しか行えない。その数字はいわば「主観的信念」の度合いを示す。
ベイズ統計は200年前に生まれた分野で、「確率」を「主観的信念」のようなものとしてとらえる。ベイズ統計はまた、主観的信念を新たな情報に照らしてどのように更新するかについて、数学的に定式化された規則を与える。≫
Qビズムは、波動関数における確率を、頻度確率ではなくベイズ確率だとすることで、量子力学の様々な矛盾(観測--波動の収縮問題)が解消されると主張する。つまり、波動関数は客観ではなく主観にかかわるのだ、と。例えば、シュレーディンガーの猫で、箱のなかの猫が生きている状態と死んでいる状態の重ね描きであるのは、箱の中味ではなく、その箱をまだ開けていない観測者の「主観」の状態を表しているのだということになる。野球の試合の結果を知らない人にとっては、試合の結果は可能な結果すべての重ね描きとしてある。しかしスタジアムにいる人にとってはそうではない。こういうと、あまりに常識的すぎて、そんなことでいいのならはじめから誰も苦労しないではないかと思ってしまうのだが。
だが勿論、主観と言っても勝手な思い込みのようなものとは違う。
≪この理論の中核をなしているのは「ベイズの定理」という明確な公式で、これに基づいて、新情報が確率の見積もりに及ぼす影響を計算することができる。例えばある患者にがんの疑いがあるとき、医師はまず、一般集団における発病率や患者の家族の病歴といった関連要因のデータに基づいて、「事前確率」を割り当てる。そして患者の検査結果が出たら、ベイズの定理を用いて当初の確率を更新するのだ。この確率の値は、医師の個人的な確信度以外の何ものでもない。≫
医者の診断(例えば「病の徴候の発見」)とは「個人的な確信度」以外のものではないが、勿論それは客観的な事実と無関係ではないどころか、きわめて深くかかわっている。
西川アサキ「「この手」をどうするのか?」では次のように書かれていた。
≪なおFuchs によれば、この解釈が「観念論」と異なるのは、(1)観測者外部にヒルベルト空間を想定している (2)観測者は結果がどうなるのか自己決定できない、の二点だ≫。
つまり、新たな観測や、他者における観測との突き合わせなどによって、この「主観的信念の度合い」は(自己決定できない---受動的な?---形で)常に変化してゆく。これも常識的と言える。このような一見、とても常識的な着地点を示すようにみえるQビズムは、しかし、「科学(客観)」というものの根幹を揺るがすかのような過激な側面がある。おそらく、以下のような主張はオーソドックスな科学者がもっとも嫌うタイプのものではないか。
≪Qビズムは波動関数を個人の確信度として解釈することで、「物理学は我々が自然について語りうることを問題にする学問である」というボーアの直観に正確で数学的な意味付けを与えている。さらにQビズムの支持者たちは実験がなされるまでその結果は存在しないという考え方を受け入れている。
例えば電子の速度や位置を測定する前には、電子は速度や位置をもたない。測定が、測定対象の性質を生むのだ。フックスの言を借りれば、「観測者の自由意思によって設定された測定が行われるたびに、世界は少しずつ新たに生まれて形をなしていく」。そのようにして、私たちは現在も進む宇宙の創造に積極的に関与しているのだ。≫
「測定が、測定対象の性質を生む」という言い方は、例えばラトゥールなどとほぼ重なると言える。そして、測定の度に世界は新たな形をもつようになる、と。西川アサキは「「この手」を…」で、Qビズムについて次のように書いている。
≪量子ベイジアンは極端な道具主義的解釈(量子状態は主観的確率とその変更方法に対する、単なる便利な記法)ともいえるし、ほとんどモナドジーに近い観念論的実在論とも解釈できる。本音は後者かもしれない。が、反発を喰らわないように穏便な道具主義者を標榜しているというところだろうか。≫
●「日経サイエンス」の記事には、以下のような記述があり、それはほぼそのまま、「「この手」を…」で展開されている反転自我解釈とスムーズに接続されるように思われる。
≪Qビズムの主張は、哲学的にいうと、観測者が住んでいる世界と、その世界に対する観測者の経験との間に両者を分ける境界があって、後者が波動関数によって記述されることを示唆している。≫
つまり、宇宙(物質的世界)と抽象的自我(観測者)とが完全に切り離されてあることになる。これは「「この手」を…」では、「過程2(力学)」と「過程1(観測)」との分離に相当する。観測が力学から切り離されるとしたら、その時「観測者の経験」とは一体「どこ」にあるのか(例えば、脳の神経細胞ネットワークも「力学」であるから「観測」から切り離され得る、わたしの脳を観測するわたし)。
●反転的自我解釈について。通常は(常識的には)、観測者が、何かしらの対象(「観測者+観測装置」の外にあるもの=宇宙)を観測するということになる(ただし、観測者は、大きさのない抽象的自我だったり、脳だったり、脳+眼という器官だったり、一人の人間全体だったり、観測装置を含むその全てだったりと、その範囲=境界線は伸びたり縮んだりし得るのでその「領域」は決定できない)。これを反転させて、観測対象(≒世界)はあくまで「脳(脳の状態)」ということにして、宇宙全体は、脳の状態を変化させることで脳の特質を引き出すための「観測装置」であるとする、という、常識から考えればひどく倒錯した「心身」図式の一つのパターンが考えられる。この時、その「脳」を観測する観測者は、脳からも宇宙からも切り離された、どこにも存在しない「抽象的自我」ということになる。
≪ところで「脳」というのは、ある意味、ベイズ的確率更新の複雑なネットワークとも見なせる。だから、量子ベイジアンの考えを、「反転自我解釈」に沿って考えれば、「脳」をベイズ的確率を更新する機械、「量子」をそこから計算される「状態」、「残りの世界」を脳状態を測定する「観測装置」、その推測に対応する「クオリア集合」を「抽象的自我」とすればいい。ただし、この解釈の場合、「抽象的自我」は脳内にあるわけではない。脳状態は、この「抽象的自我」にとって観測・測定の対象になる。≫
つまり、「わたしの抽象的自我」が、この宇宙全体という観測装置を通して、「わたしの脳」を観測しているということになる。「脳(機械)」と「自我(クオリア)」とが、「この宇宙」という媒介を通して向かい合い、互いに変換し合っている、とも言える(だから、自我は脳の中には無い)。究極の自己言及としての「実在」。脳自体は、観測不可能な「ベイズ確率の変更装置」であって、脳が波動関数を用いて計算する「量子」が脳の表現としての「残りの世界(≒宇宙)」を生み(宇宙を更新することで創り出し)、「わたしの抽象的自我」は、それをクオリア集合として観測(経験)する、ということになるのだと思う。頭がクラクラするようなすごい世界像だ。
このように考える時、宇宙の外にある(宇宙の中のどこにもない)「抽象的自我=クオリア」たち(わたしの自我とあなた自我)が、なぜ「混ざってしまわないのか」という問題が出てくる(クロソウスキー『パフォメット』のような)。この疑問は、次のような非常に面白い帰結に繋がる。
≪「あなたの脳」という記号・イラストに対応する「あなた」は無数にいるが、たまたま「まだ矛盾が顕在化していないだけ」で、観測と共に矛盾が現れ、世界、精神またはその両方が分岐すると考えることは出来ないだろうか?≫
≪だから、
(1)反転クオリア的な自己が無数に同居している。
(2)ある時点までは同じクオリアを共有していたがどこかで分離する自己が無数に同居している。
……、という「量子的実在論?」を考えてもいい。≫