●けいそうビブリオフィルの連載で、前に「相対性理論的な感情」として、『ほしのこえ』と『トップをねらえ!』について書いたけど、次は「量子論的な多世界感覚」について書こうと思っているのだけど、おそらくこの二つをあわせた先に『君の名は。』があると考えられるのではないかと、考え始めている。
(『君の名は。』について書くのはもう少し先だと思うけど。)
量子論的な多世界感覚」というのは、たんにエヴェレットの多世界解釈のことを想定しているだけでない。量子論的に(量子もつれの例などで)考えると、因果が光円錐内に閉じていないと言えて、しかし、量子もつれを利用した信号の伝達は原理的に不可能なので、情報伝達の速度は光速を越えられない(だから相対性理論との齟齬はない)。因果は情報より速い。つまり、知りうるすべてのことを使っても、いま、ここを成立させている状態の完全な因果関係を知る(組み立てる)ことが原理的にできないということになる。決定論的にできないだけでなく、確率論的にもできない。これは、因果が近接性によって伝わって(連鎖して)ゆくという常識を破ってしまう。われわれは、決して触れることの(行き来することの)できない遠くの何かから常に影響を受けている(かもしれないが、それを知ることはできない)。このような認識がもたらす世界観の変化は無視できないものがあると思う。
(この感じは、たとえば『君の名は。』に強くあらわれる「忘却」の主題と絡んでいるように思われる。『君の名は。』では、最初の入れ替わりの一日が完全に忘却=省略されてブランクになっていて、冒頭近くからブランクを強く意識させられるつくりになっている。)
(因果的には決定論的であるが、情報的には不可知であるもののことを「偶然」と呼んでいるのかもしれない。だとすれば、偶然に関する主題が忘却---あらかじめ忘れられた何か---という主題と結びつくのも理解できる。)
量子論は、未だ常識として着地していないが、半導体などを通じてさまざまな日常的製品に量子力学の理論が使われている以上(とういか、科学的にはそもそもこの宇宙は量子論的に成立していることになるのだけど)、それらを通じてわれわれの感覚に影響を与えていると思われる。
別の世界のぼくが右を選択したので、この世界のぼくは左を選択した。別の世界のぼくが死んだので、この世界のぼくは死なずに済んだ。だかそれは、この世界の因果からは説明できない。このような感じの物語が受け入れられるのは、その背景に(ハードサイエンスとしての量子力学そのものではなく)量子論的世界観---感覚---がある程度は受け入れられているからではないかと思う。
(あるいは、古くからある物語の要素---たとえば双対的な存在としての分身など---が、新たな組成のもとに別のリアリティをもって生まれ変わる。)