●「アインシュタインはなぜサイコロが嫌いだったか?/量子理論はなぜ日常言語と衝突し、精神分析的知とは重なるのか」(樫村晴香現代思想」1996年9月号)。最近ぼくが、うんうんうなりながら数学の出来ない足りない頭で必死に物理系の本を読んだりして考えようとしていたことの答えが既に16年以上前に書かれていたという感じの衝撃。いや、過去に何度も読んでいるはずだけど、量子論について書かれているところがよく理解出来てなかったから、精神分析についての部分だけ読んでいた感じだったのだろう。量子論的な議論にある程度は馴染みが出来たからこそ、(どこまで正確に理解できているかはともかく)最後まで読めるようになった。でも、内容はかなりハードであるとはいえ、樫村さんのテキストとしては圧縮度と錯綜度がそこまですごいというほどではないので、(量子論精神分析の議論の両方にある程度馴染みがありさえすれば)、割とすんなり読めるテキストなのではないか。それにしても、ぼくが知らないだけかもしれないけど、こういうことをちゃんと書いている人が(というよりそもそも「ここ」に問題があると指摘している人が)、樫村晴香以外にいるのだろうか、と思う。
精神分析空間は、本質的に、いわば波束の収束問題と同じ過程を抱えています。例えばある人が、父親に強く愛着し、その理想化を行い、他方で母親への憎悪と軽蔑の感情をもっているとします。このとき両方の系は規定しあい、強固なコンプレックスを構成します。この状態に対し、母親との関係をめぐって分析と言語化を進めると、例えばその憎悪が、完全に抑圧された父親への敵意の転移作用を受けていたこと、そして父の理想化はその敵意の補償の側面もあったことなどが明らかとなり、母親の系の言語化は、父との関係を干渉し、状態を変更させ、結局その系の状態は、元のままでは永久に取り出すことができなくなります。確かに父への現実的愛も存在していたはずだとしても、それは元のようには残りません。あるいは父との関係から記述を始めたとしても、また同様のこととなり、結局母と父への対象備給の初期状態を、両方とも厳密に記述することは、いわば不確定性関係のような規制を受けるのです。≫
精神分析空間が非分配束化するのは、記憶の言語化、つまり記述と観測の結果が、元の脳の状態を保存できないことによっています。実際精神分析で何かを語ることは、記憶を取り出すというより、想起および解釈という強引な力を記憶に対し不断にかけ、それを変質させ破壊し続けるような過程です。しかもその過程、つまり分析・観測なしには、記憶の存在は認識も記述もできません。一方すでにみたように、量子空間で結合子∨がみせる奇妙な振る舞いは、観測行為、つまり量子体系を古典物理学体系に記述しなおす限りで発現します。つまりどちらも記述という射影、圧縮をめぐって構造的に等価な問題が生じており、だからこそ、量子理論での分配則の不在を前にして、人々は奇妙な感動と嫌悪感の両者をもったのです。≫
●「すでにみたように」と書かれた、量子理論での分配則の不在についての詳しい記述(ここは、ぼくはぼんやりとしか分かってないです)。
≪量子理論は分配則の欠如としてよく知られています。これは量子力学が駆動する無限次元複素ユークリッドヒルベルト空間において、その空間の二つの閉線形部分空間A、Bをとり、両者の共通部分をA∧B´両者から生成されさらに閉線形部分空間とされたものをA∨Bで定義した時、∧と∨について成立する演算が、オーソモジュラ束ではあってもモジュラ束にはならないこと、要するに分配束を構成しないゆえに、∧と∨について古典論理学の体系と齟齬することに由来します。ただし、ここで分配規則(A∨B)∧C=(A∧C)∨(B∧C)が成立しないのは、結局結合記号∨の部分の特異性に由来します。つまり∧については、二つの閉線形部分空間の共通部分は、必ず閉線形部分空間となるのですが、∨に関しては、両者から生成された線形部分空間は、必ずしも閉線形部分空間であるとは限りません。これが量子論理の非分配束化を帰結させる証明は省きますが、これは大学初等の線形代数で理解できる、きわめて平明なプロセスです。≫
●そして、精神分析的空間の非分配束化について。
≪再度確認すると、ここで例えば愛すると憎むが、量子理論の∨と同じように奇妙に振る舞うのは、「愛する∨憎む」という状態が、本質的に記述のオーダーと相いれず、記述がなされることによって、元の状態が失われる位相にあるからで、重要なのはあくまで記述による状態変更という、いわば波束の収束問題です。これは愛と憎しみが両義性をはらんでいる、などという、単に概念水準の分節問題ではありません。ですから、精神分析空間の非分配束性をより的確に了解するためには、例えばAとBを父への愛と憎悪、Cを母への憎悪とし、(A∨B)∧Cは記述以前の父への関係が母への意識的憎悪と両立している状態、A∧CおよびB∧Cは、父との関係が述語として記述・意識化され、それが母との憎悪と両立しなくなり、各項が真偽値0を返す状態、そしてその結果として、(A∨B)∧C≠(A∧C)∨(B∧C)が帰結する、という風に考えるのが、より適切です。≫
●つまり、(A∨B)∧Cという量子的状態から(A∧C)∨(B∧C)という古典物理学的状態への移行(射影・圧縮)は不可逆的過程となる。ここで、精神分析的(量子論的)ではない、通常の日常言語での思考(古典論理学)ではどうなっているか。
≪実際数学的に見れば、分配則が成立する体系もそうでないものも同様に構成可能で、その違いは相対的なものですから、分配則を当然視する習慣は、専ら日常言語にのみ由来します。例えばAを、何かが人間である、Bを、何かが神である、Cを、何かがマリーである、とします。すると(A∨B)∧Cは「マリーは、人間か神である」と同値となり、他方の(A∧C)∨(B∧C)は、「マリーは人間である、あるいはマリーは神である」と同値となり、この両者の間には、いかなる相違もありません。≫
●そしてここでようやく、われわれは「言語以前」を考えることができる。
≪そして、ここから逆にふりかえると、人間あるいは神、という最初の例において分配則が成立するのは、そこではすべての事象が記述という射影・圧縮を予め行使され、いわば量子世界から古典物理学世界への記述変更を、すでにすませていたからだ、ということに思い至ります。この視点の一八〇度転換、つまり日常言語と古典論理学的演算によって言語以前のものを考えるのではなく、古典論理学を言語以前のものから射影の帰結として考える態度は、量子世界の登場による、古典力学古典論理学のローカル化によって可能づけられます。そして逆にこの視点転換が、そのローカル化を完全に遂行する、哲学的地ならしにもなるのです。≫
●既に言語化(射影)されてしまったものをこねくりまわすのではもう遅くて、分析・記述とは、その都度、何度でも繰り返し思い出すという過程そのものとしてしかないことになる。