●『輪るピングドラム』、第九話。大きな変化。イリュージョン空間での落下、苹果の水没や床下潜入などはあったが、これまでは基本的にこの作品は水平的な運動性によって形作られていた。そしてそれは主に苹果の行動力によって支えられた。苹果がツバメの巣の写真を撮る場面でも、その高さは危険度としてあり、つまりは苹果の行動力やその無謀さをあらわすためのものであった。
回想場面が多い作品だが、その回想も現在時での運動や出来事に導かれるもので、過去が現在の根拠となる(過去が現在の下層に位置する、過去によって現在が説明される)という形で層をつくる感じではなかった。過去と現在が階層的な関係にあるのではなく、水平的な交錯(反響)としてあった。一言で言えば、ひたすらに水平的に展開することが、「ウテナ」に対する「ピングドラム」の決定的な新しさだった。
しかし前回、多蕗と時籠が引っ越した高層マンションが登場し、そしてその非常階段から苹果の日記が落下するという出来事が起こった。それはこの作品に、垂直的な「高さ」という次元が付け加えられたことを、おそらくあらわす。そして今回、新たに地下への「深さ」という次元が付け加えられた(エレベーターのパネルが「反転」し、高さが深さとなる)。これはある意味でとても危険なことだ。「深さ」が、図書館・記憶・過去としてあらわれるという層構造は、あまりに心理主義的であり、紋切型である(『インセプション』みたいになってしまう)。「エヴァ」が、ひたすら心理的な深さへと潜行し沈降してゆく作品であったのに対し、「ウテナ」は、根室記念館の(心理的)深さと、理事長室の(超越的な)高さが対置され、最終的にはその双方が否定された(というか、その双方の解体こそが作品を通じた主題であった)。ここでまた、多蕗のマンションの高さと、サンシャインの地下に隠された図書館の、さらに地下という深さがあらわれるということは、結局この作品もまた「ウテナ」的なところへと回収されてしまうのではないかという危惧が、少しだけ湧いてくる。そうなっちゃったらつまんないなあ、と。
とはいえ、「ピングドラム」の発想の元であると言われ、一話で言及されてもいる「銀河鉄道の夜」では、地上の川と天の川という反転的な対照によって、水没が昇天へと反転し、そのような空間的反転構造が、犠牲による死を「ほんとうの幸」へと転じさせるという構造になっているので、「ピングドラム」においても、下方への深さが安易に心理主義的、あるいは「エヴァ」的層構造として使われるだけということはないだろうと思うけど。
●というか、作品全体が層構造化してゆくというよりも、基本的に水平的に転回するピングドラム(苹果)的世界に、垂直的な楔を打ち込んでゆくのが、陽毬という存在なのか。そもそも最初にあった宇宙生物-陽毬という上からの垂直性に対して、九話で、地下の王子(?)との関係(下からの垂直性)があらわれたのだから、陽毬ははじめから垂直的な存在だということになる。九話が一話の反復としてはじまるということの意味がここにあると言える。表・上からくる垂直性である一話と、裏・下からくる垂直性である九話が、水族館という「世界の始点」で交わる(あるいは分離する)ということなのか。
(「運命の至る場所」とはおそらく水族館のことであり、つまりそこは世界の始点であり終点であるような場所だろう。それは、「ウテナ」の「世界の果て」のように、無限遠点から世界を囲い込んで限定するものではなく、始点=終点なのだから無限定的であり、何度もそこへ立ち返って、世界を反復-更新(重ね書き)するための場所ということになると思う。このような世界構造が、ひたすらな水平的展開を、あるいは水平的展開と垂直的展開との非-階層的な関係(交錯)を、おそらく可能にするはずだと思う。
「世界の果て」の世界は「広い」けど限定的であり、「運命の至る場所」の世界は、「狭い」けど「無限定」なのだ。前者は、全体(内)とそれ以外(外)という世界で、後者は内も外もない(おそらく、関係と無関係だけがある)。このことが「ウテナ」と「ピングドラム」の最大の違いなのだと思う。)
ということは、ひたすら水平的に展開し、行動してゆく水平的な存在である苹果と、ただただ垂直的に上がったり下がったりする垂直的存在である陽毬という対照性があるということか。転がるリンゴとバウンドする毬。
●「かえるくん東京を救う」って大嫌いな小説だけど(「神の子供たちはみな踊る」は、「悪い意味」での小説的な技法-想像力の見本市のような短編集だと思う)、ここでは「かえる」によって、主題論的に陽毬と苹果が交錯することになる。苹果における、何度もイメージとして回帰する表層化された「かえる」に対し、陽毬の「かえる」は「言葉」としてあり、しかも失われていて、見つけ出すことが出来ない(イメージがない)。裏返しの「かえる」。
苹果は、ももか(姉)-多蕗という失われた「特別な関係」に固執し、その再現を求めて行動するが、今回、陽毬は地下で、かつていた「特別な存在」を忘却してしまっているらしいことに気づく(そのような意味で、陽毬はももかのネガのようでもある)。関係と存在、固執と忘却という対照性も、二人にはある。苹果は記憶に囚われることよって必然的に「汚れ役」(グロい「かえる」のようなイメージ)となり、清いお姫さまである陽毬の「清さ」は忘却によって可能になる(「かえる」はみつからない)。陽毬の特質はすべてを簡単に忘れてしまうことにあるようだ。「夢」もすっかり忘れてしまう。そして忘れたことを忘れるのだろう。