●『輪るピングドラム』第13話。うちには録画装置がないので振り返って確認できないのだが、たしか1話で冠葉によって語られていた「運命」についての語り(運命が嫌いだ)が、今度は晶馬によって改めて反復される。そして陽毬の二度目の復活(プリンセス・オブ・クリスタルによる復活とサネトシによる復活)。さらに久々に「☆」もあらわれた。つまり、この物語が12話×2という形式よって語られること、その二つ目(二順目)のはじまりがはじまったことが形式的に告げられる。
●苹果による「運命」についての語り(運命が好き)も反復されるが、苹果においては運命の意味が最初とは違っている。最初は、運命とは桃果の日記に既に書き込まれた事柄を忠実に再現することだったのだが(つまり結果が約束されていることだったのだが)、ここでは、そのような運命が果たされなかったこと(つまり晶馬に出会ったこと)が「運命」として肯定されている。この、苹果における「運命」の意味の変化(ある意味では「運命」からの脱却)が、前半の12話において成されたことだと言える。
消滅する媒介者として、自らを消して姉と同一化することを目指した行動が、結果として、自分を自分自身に出会わせる(晶馬と出会うことで自分自身の欲望を知る)ことへ辿り着いてしまう。ここで運命とはほとんど偶然と同義語で、偶然そうなってしまったことを運命として受け入れるということだ。しかしここには、桃果と晶馬との因縁(事件)という、また別の意味での「運命」の罠か待ちかまえているのだが。つまり、偶然としての運命であるはずだった晶馬との出会いが、過去の因縁に絡み取られることで幽霊が呼びさまされ、束縛としての運命へと転化してしまう危険が生まれる。
運命という言葉の多義性。将来が決まっているという意味での運命から、偶然の結果を受け入れるという運命へ、そして、過去に束縛されているという意味での運命。それらのすべての運命が、たまたま「その日」に生まれたという最初に刻まれた「運命-偶然」によって発動されている。
●これまで、苹果のいる場面にのみあらわれていたゴキブリが、苹果のいない陽毬の病室にあらわれた。このことは、第1クールでの苹果の役割が陽毬に引き継がれたということを意味するのだろうか。眠り姫はようやく目覚め、これから本格的に動きはじめるのか…。苹果並みの暴走を期待したい。
●極端に動きのない回。陽毬の復活のほかは、晶馬による昔語りと回想、サネトシによるメタ的モノローグ、苹果と多蕗による昔語りと、「語り」ばかりが三つ重なる。物語がスムースに流れず、絶えず方向転換しながら分岐してゆく。晶馬の語り(事件後のてん末)から、メタ的位置からのサネトシの語りへと位相が移動し、さらに、晶馬の語りに対する異なる視点からのリアクションとして、苹果と多蕗の語りが置かれる。
●ここで面白いのは、サネトシによる語りが一種のメタストーリーとなるのだが、これが前回の晶馬による「メリーさんの羊」の話と矛盾すること(陽毬を生きさせているのは女神の悪意なの?、プリンセスとサネトシによる何かしらの目的なの?)。つまり、この物語世界のメタの位置にいるのは、「メリーさんの羊」の女神さまなのか、それとも地下で世界中の「助けて」を聞いているというサネトシ(正確には、上からの超越性としてのプリンセス・オブ・クリスタルと下からの超越性としてのサネトシのペア)なのか分からなくなる。唯一の超越性なのか、二つの相反する超越性のカップリングなのか。メタレベルが分岐(二重化)してしまって、メタストーリー(神話)としての正統性が疑われ、どちらも準メタ的な位置に格下げされる。一つの事柄を二つの異なる神話体系が異なるやり方で記述(説明)した時、中心軸がぶれて、そのどちらの体系が真理を保証してくれる(現実を制御している)ものなのか分からなくなる。真理を記述するものとしてのメタストーリー(神話)としての権威は失墜し、現実レベルと並列化・水平化することとなる。
(この二つのメタレベルに共通する「闇ウサギ」は、平面的なウサギ、写実的なウサギ、比喩としてのウサギ(ウサギの耳のようなリボンをつけた少年)という形で様々に変化することでレベルの違いを超えて、二つのメタレベルにも現実的なレベルにもあらわれる。闇ウサギも、たんなる意味ありげなメタファーだったら面白くないけど、カエルと同様、様々な形に変形されて、物語の様々な層に転生してあらわれるところが面白い。変形し、分岐し、転生するその「動き」が、比喩を単調さから逃れさせる。)
この物語の面白いところは、このような分岐がいろんなところで起こっていることだと思う。双数性、二元論は、世界を「二項対立」によって説明するのではなく、あらゆるものを「二」へと分岐させてしまう。分岐することによって、安定的な構造を突き崩すとともに、(苹果にとっての「運命」の意味を変えたように)新たなものへと作り変えてゆく、分岐させ、構築する力の源泉として「二」がある。
(だから、夏芽による光と闇の二元論も、そういうものの一つとして聞いておこうと思う。)
●女神の方がよりメタ度が高そう(変な言い方だけど)だが、その分抽象的であやふやで、かつ凡庸である。一方、サネトシは、陽毬の夢のなかの地下深くの図書館司書という半ば抽象的な存在だったはずなのに、現実的なレベルで「新薬」をもたらす医師としても登場してしまう。プリンセス・オブ・クリスタルは実体がなく、陽毬に憑依していたのだから、それによって抽象性(メタ性)を保っていたが、サネトシは、メタレベルと現実のレベルの両方に具体的に「実在する」ことで、両者をより積極的に混線させることが予想される(闇ウサギのように「変形」することなく、そのままの姿を保って、異なるレベルに存在する)。現実のレベル(病院)で陽毬を救ったかと思うと、次の瞬間には地下(図書館)に戻ってメタ語りをはじめる。プリンセス・オブ・クリスタルが、現実的なレベルとメタレベルの中間(抽象的イリュージョン空間)にいるとすれば、サネトシはその両者に同時にいることで、論理階梯を混乱・混線させる(そして二人とも階段を下りている)。
●ああ、そうか。プリンセスは陽毬に憑依し、サネトシは陽毬の夢から出てきたのだから、「プリンセス/サネトシ」の対世界は陽毬に由来し、一方、「女神」世界は晶馬によって語られるのだから、晶馬に由来するという違いがあるのか。
●冠葉はますますカンパネルラに近づいている感じ。蠍の火は重要なモチーフなのだろう。宮沢賢治的主題が強くなっている。
宮沢賢治と言えば、今まで普通の地下鉄丸ノ内線かと思っていたのに「スカイメトロ」って…。まあ、銀河鉄道というイメージなのか。これって、電車が地下の空洞のなかで上から吊られて宙に浮いてるってことなのだろうか。それが16年前の事件を受けてのことなのか。今まで、駅のホームや地下に至るエスカレーターなどが省略されていたのは、(たんなる演出上の様式ではなく)これを隠しておくためだったのか。
地下鉄がこのような形であるということは、「あの事件」が具体的にはどのようなものとして(フィクションとして)構成されるのかという点に深くかかわっているはず。
●検索してみたら、チューリッヒ国際空港にスカイメトロというのが実際にあるらしい。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1230087199719.html
《同空港はスイス最大の国際空港であり、日本からの直行便も発着している。空港はとても広く、日本線をふくめた長距離便のターミナルまでは、「スカイメトロ」と呼ばれるシャトルで移動しなければならない》
《スカイメトロの旅は3分弱。走りだしてトンネルに入ると、その内壁に突然ショートムービーが流れだす。しかも、ハイジやマッターホルンといったスイスらしさ満点の映像で、一瞬にしてアルプスの山々にトリップしたような気分に! スイスに着いた実感がムクムクと湧いてきて、長旅の疲れもふき飛んでしまう。》
《ところで、走っているメトロからなぜムービーが見えるのか? 実はこれ、実際にムービーを流しているのではなく、連続した160枚の絵を貼りつけてあるのだ。すべての絵が少しずつ違うため、スカイメトロが時速50kmで走ったときに、約8秒間のショートムービーとして目に映るというわけ。》
●食卓のから揚げがすごくおいしそう。陽毬は待たずにとっとと食べ始めてしまうキャラ。「ピングドラム」はいつも料理の描写がすばらしい。
三年前の高倉家の室内は現在ほどカラフルではないけど、色彩の趣味は共通していて、その萌芽は既にある。
●新しいエンディング。これは、人物が落下しているというより、視点が上昇しているという感じなのだろうか。オープニングが、水平方向への動き+落下という感じなので、エンディングは上昇(というか昇天)というイメージなのだろうか。