●『輪るピングドラム』の発想の元になったということなので「銀河鉄道の夜」を読み返してみた。ぼくは、宮沢賢治は好きなのだが「銀河鉄道の夜」は今まではピンとこなかったというか、あまりよく分からない感じだったのだが、「ピングドラム」と比べて読むことによって、興味深く、面白く読めた。(ジョバンニがザネリに「ラッコの上着」についてからかわれるのに驚いた。「銀河鉄道の夜」にラッコが出てきたことなんてすっかり忘れていた。)
あと、ますむらひろしがキャラクターデザインをしているアニメ版「銀河鉄道の夜」でも、「ピングドラム」と同様、ジョバンニ(晶馬)が青くて、カンパネルラ(冠葉)が赤い。
●DVDで観た『宇宙ショーへようこそ』の予想外のクオリティの高さに驚いた。すごく楽しかった。ただ、クライマックスで話を広げ過ぎて、最後にきて冗長になってしまった感じ。SF的な設定を広げたり、へんにメッセージ性を込めたりしないで、二人の女の子がどう和解するのかという一点だけでやり切った方がよかったのではないかと思った。とはいえ、ちっちゃい女の子が誘拐されてしまうまでの展開は、少しの隙もなくすべて楽しかった。明らかにキャラクターが弱いとか、そういう欠点はあるにしても、観ている間はそんなことを感じている暇がないくらいに、みっしりと密度があった(むしろ、キャラクターが過剰に前に出てこないところがいいのかも)。
●とはいえ、『宇宙ショーへようこそ』は、とても密度の高い充実したものではあるけど(作家がつくったものとしての)「作品」という感じが希薄なのだ。作品というより、アニメというジャンルの、現在までのところの様々な技術の達成の(成功した)あるひとつの側面、という感じ。作品ではないから、駄目/良いということではないのだが、しかし何かが違う。
それに対し、幾原邦彦は明確に「作家」であり、『輪るピングドラム』は「作品」であるように思われる。それは、「ピングドラム」が幾原邦彦の力だけによって出来ていると言う意味では勿論なくて、多くの人の才能や技術が結集してつくられた共同制作物であるにも関わらず(おそらくアニメは実写映画などよりもさらに共同制作性が強いというか、共同制作度が高いと思われる)、そこに何故か作家の「刻印」が押されているように感じられるということなのだと思う。
それはたぶん、作家がエライということでもなくて、作品そのものにある固有性が感じられるから、そこから遡行的に「作家」が感じられるということなのだと思う。
(おそらく、各回、各場面に、それぞれの演出家や作画者の「作家性」があったりするのだろうし、色彩設定やキャラクターデザインでもそうなのだろうけど、それを超えてというか、それを含み込んだ形で、作品を通したある固有性が感じられる、というか、まだ完結していないから、期待-予感される、ということではないか。)