●ちょっと気になって斎藤環「コンテクストのオートポイエーシス」(『文脈病』所収)を読み返してみたのだが、これが滅茶苦茶面白かった。前に読んだのは十年くらい前だったかもしれないが、その時は全然理解出来てなかったんだな、と思った。一つの主体のなかで、精神分析的主体システムと神経生理学的主体システムとが互いに重ならないままバラバラに作動していて、それが顔-同一性-文字によって架橋されているっていう風に、図式的にしか捉えられていなくて、それってつまり、精神分析的な体系では「学習」が記述出来ないから、ベイトソンとかオートポイエーシスを「導入(利用)」してその足りないところを上手いこと補強しようとした、くらいにしか捉えられてなかった。
●ここではまず、精神分析的主体(Psychoanalytic Subject)が情報理論的システムとして、器質的、神経的主体(Organic Subject)がコンテクスト的システムであると位置づけられている。そして情報理論とコンテクストが決して両立しないこと、つまり、情報理論(差異)によってはコンテスト(メタレベル)は決して記述できず(シニフィアンにメタレベルはない)、コンテクストを問題にすると情報量という概念が成り立たなくなる(意味は情報量という外延的な量では測れず、内包量的な強度としてある)、という点を根拠に、PS-精神分析的主体とOS-器質的主体とを統一的に記述することの不可能性が言われているのが面白いのだが(一方の記述で他方を梱包できない)。
コンテクストを形成する学習(ベイトソンの「学習2」)とは、《新しい刺激の反復が意味へと分節化される過程》であるとされ、この過程では必ずしも言語の介在は必要とされない(つまり精神分析的主体とは別のシステムで作動している)、とされる。そしてコンテクスト(メタレベル・意味・強度-内包量・神経系システム)と情報理論(差異・シニフィアン・情報-外包量・精神分析システム)を架橋するのが「顔」なのだ、と。
《たとえば「顔」は、けっして数量化することができない。表情の微妙な変化は、画像情報としての「顔」においては、情報量の変化でしかない。(…)われわれは「顔」そのものをどのように用いるのか。もちろん個体の「固定」のため、固有の同一性の確認のためである。「顔」が数量化できないということは、この固有性が数量化できないということと同じだ。》
《われわれにとってコンテクストが問題となるのは、ひとつには「個人」や「言葉」といった、本来「非-同一的」であるものが、いかにして同一性を維持しうるか、という問いに答えるためだった。とりわけ、われわれの日常を支配しているのは、「個人の同一性」という、およそ根拠に乏しい「信仰」なのだ。》
《(…)「個人の同一性」を根源において支えるもの、それが「顔」である。(…)「顔」は意味作用の根源にあるということから、「固有名」と同様にシニフィアンの源に位置づけられ、同時に始原的なコンテクストとしての機能を担わされている。それがすなわち「固有性のコンテクスト」である。したがって、「コンテクストの度合い」と「固有性の強度」とは、「顔」という形式において、あらかじめ一致させられている。》
「顔」は、意味-コンテクストであると同時に、「一(同一)」であることの刻印-シニフィアンである、と。
●でもこれはよく読んでみるともっとずっと大きな射程をもった(そしてもっとずっと込み入った)話で、まあ、これはぼくの勝手な読み込みなのかもしれないけど、精神分析(というか、神経症システム)からの脱却の可能性みたいなことまで広く(遠くには)視野に入っているんじゃないかとさえ感じられた。実際、このテキストで順番に取り上げられる、ホール(コンテクストとシニフィアンの共立不可能性)、ベイトソン(コンテクスト-学習-新たなものの到来)、ラカン(シニフィアン-症状-抑圧されたものの回帰・反復)、マトゥラーナ(二つの異質なシステムのカップリング)の四つの名前のうち、三つめのラカンまでのところは、あくまで精神分析に基づいた(軸足を置いた)記述がなされているけど、四つめマトゥラーナの部分では、むしろ主な軸足はオートポイエーシスのほうに移っていて、その弱い部分を精神分析によって補強するという、はじめにイメージしていたのと主従が逆転しているように思われた。
この論考の主な部分は、著者が自らを臨床家(「治療」する人)として、「臨床の知」という立場を宣言するところで終わる。つまり、臨床の場においては、ラカン派としての理論の厳密性にかならずしも固執するものではない、と。OSとPSとの分離と協働(一方からは決して他方を記述できないこと)が、そのような態度を正当化する。精神分析の理論的厳密さは「なくてはならない」が、それが「すべて」ではない。《過度に厳密な理論は、臨床場面では素朴実在論と同じ弊害をもたらす。しかし徒手空拳、無手勝流の自己理論は、臨床場面では自己愛の対象物しか見出すことはない。私はそのいずれにも与するつもりはない。》これはこれでとても重要な事柄だと思うが(このことの重要性を軽くみるつもりはまったくないが)、これは、臨床に限らず、様々な意味でのプラクティスに関わる人なら誰でも知っていることとも言える(つまり、ここで終わっていれば、きわめて妥当、かつ常識的な「着地点」であろう)。
●だがこのテキストにはこの後、余計とも思われるリンチの『ロスト・ハイウェイ』についての言及が付け加えられている。ぼくは、この著者の直接的なリンチ論(『文脈病』にも収録されているけど)にはあまり魅力や説得力を感じないのだが、この論考の最後にリンチについての言及が置かれることで、(少なくともぼくにとって)論考全体の説得力が倍増した(と同時に、リンチの魅惑も増した)。それまでもかなり興奮しつつ読み進めていたのだが、最後のところで、そうか、そういうことなのか、と激しく腑に落ちた感じ。以下の引用は『スト・ハイウェイ』についての言及。
《ここの描き出されるのは、OS(神経生理学的主体、コンテクストを産出する)とPS(精神分析的主体、シニフィアンを産出する)の乖離、すなわちデ・カップリングの一つの形式にほかならない。「顔」の固有性が失われるとき、シニフィアンとコンテクストの交換に決定的なずれが生じる。固有性のコンテクストは、もはや同一のシニフィアンに回付されない。かわってもたらされるのは偽の「顔」・偽のシニフィアンの連鎖だ。このときAP(オートポイエーシス)の作動が再帰的に産出するのは「OSとPSのずれ」それ自体となり、「主体の表象」は環境の側に区分され続ける。つまり「フェイクのフレッド」の無限の「排出」がはじまるのだ。これこそが「ロスト・ハイウェイ」に描かれた分裂病構造にほかならない。》
「固有性のコンテクストが同一のシニフィアンに回付されない」ことで、「主体の表象」が「環境の側に区分され(排出され)続ける」。つまり、ある環境のなかにシステム(主体)がある時、そのシステムの、自らの表象(私)が「環境」の側へと流れ出してゆく。同一性のシニフィアンであると同時に固有性のコンテクストである「顔」がその機能を半分失う(固有性から同一性が失われる)ことで、逆説的に世界に「(偽)顔」が増殖する。その時、「私」が、システムの内側から外へ滲み出て(漏れ出して)環境の側に現れる。私の内と外は反転し、外側に準-私とでもいうべきもの(偽の顔)が現れて増殖する。そのような世界では「言葉」は、絶対的な命令であると同時に不信と恐怖の源であろう。これはまさにリンチを観ているときの感触そのものではないだろうか。『ロスト・ハイウェイ』でそのような形式が完成し、『マルホランド・ドライブ』ではさらに複雑化し、『インランド・エンパイア』ではその形式さえ解体されつつある感じがする。
そしてこの感触は、「あなたが動くことによって、あなたがつくり上げる生命が、あなたの外側にできる」という荒川+ギンズの「反転」とそのままつながるように思われる。
このような時、主体は既に「神経症システム」の圏外にある。つまりそこから脱している。しかし、神経症システムの外とはつまり精神病の場所なのだ(つまりそれは「症状」ですらない)。そこは底知れない苦痛と恐怖の場なのだ、と。樫村晴香は、ドゥルーズが記述するニーチェの(本来は分裂病的な)「偽なるものの力能」がクロソウスキー化-倒錯化してしまっていることを批判しているが、ここで失われているのは想像的な次元でのアイデンティティーではなく、もっと根源的な、象徴的同一性なのだ(あるいは、リンチ-分裂病とロブ=グリエ-倒錯の違い、ロブ=グリエにおいて問題なのは想像的次元であり象徴的同一性は揺らがないが、リンチにおいては同一性の根本が揺らいでいる)。だから、神経症システム(疎外・抑圧・シニフィアンの連鎖による同一性の刻印)は主体の全てを把捉するものではないとしても、「なくてはならない」ものなのだ、ということになる。臨床家(治療者)としての筆者は、そこに再び「顔」(OSとPSの架橋によるコンテクストとシニフィアンの交換)を回復させようとするだろう。しかし、次に引用する部分のもつニュアンスは複雑で、一義的ではないように感じられる。
《想像的な「アイデンティティー」はおろか、死とひきかえにPSに保障される象徴的同一性=固有性すらも分裂病によって無効化するとき、「主体」を救済する回路はどこに確保されうるか。
おそらくそれこそが、器質的同一性、すなわち神経系の同一性にほかならない。それはまさに、遍在する「顔」のない主体、生物種として、OSとしての個体の同一性を意味するだろう。このとき分裂病患者にとって、みずからの同一性を告げる声(幻聴)は、恐怖の対象でしかない。(「ロスト・ハイウェイ」の)ミステリー・マンの位置がそれを証している。われわれはこうした、異貌の同一性を前にするとき、どのような治療的態度を維持すべきだろうか。もちろんここで「治療」と言われるものは、分裂病患者の「顔」を回復する手続きにほかならない。》
確かにリンチの世界は恐怖で満たされている。しかし、象徴的に刻まれた「一」が失調しても、それとは別の同一性があり得る。「顔」を失った主体にもまだ、神経系の同一性が残されているのだとしたら、そこから、「顔(OS+PS)」とは「別の主体化(別の同一性、同一ならざる同一性)」の体制の創出がなされる可能性はありえないのだろうか。OSと協働可能な別のシステムの創発。必ずしも恐怖で満ちているわけではないリンチ的世界もあり得るのではないか。このように問うことはあまりに無謀な(文字通りキチガイじみた)ことなのだろうか。(「真理」としての)精神分析から(決して「真理」のレベルへと至ることのない)オートポイエーシスへの主軸の移動は、その可能性の余地を残すものなのではないだろうか。なにより、筆者がリンチに魅了されているという(あるいは、世界じゅうの少なくない人々が魅了されているという)事実が、その可能性の余地を示すのではないか。荒川+ギンズの言うような、極限で似るものたちの共同性(としての主体化=同一性?)とか…。
●しかし、ぼくがリンチを「楽しめる」のは、(少なくとも今のところは)象徴的な同一化を確保した非-精神病者であるからで、上記のような妄想そのものがお気楽なものなのかもしれない。精神分析(神経症システム-PS)は、「(1)すべてではない」が「(2)なくてはならない」という、(1)と(2)のどちらを強調するのか、という話になってしまうのだろうか。いやしかし、非-神経症的主体システムが、必然として精神病としてしかあり得ないという前提を疑ってみることくらいは出来るのではないか。