●スカイツリーのちかくで「幾原邦彦展」をやっている。すごく観に行きたいけど、連休中は家に引きこもってやらなければならないことがあって、出かけられる日をつくるのが難しい。
●たまたま見つけた幾原邦彦展図録の幾原コメントの写真。
https://twitter.com/nighty_queer/status/1122071537568235522
《『さらざんまい』では、一稀たちとゾンビは実は同じであるということが明らかになっていくんです。最初ゾンビは禍々しく、いやらしいものとして表現されているんだけど、実は彼らの存在は主人公たちと等価。僕たちの命や欲望というのは、そういった禍々しさと同列で、その中で存在できる命と存在できない命の分岐のラインが大事になるんだと思う。》
「存在できる命と存在できない命の分岐のライン」。『さらざんまい』もそっちの方向へ行くのか、と。
たとえば「ピングドラム」で陽毬は、ネグレクトされて子供ブロイラーに送られ、「透明」になってしまう一歩手前で、晶馬に見つけられることで「存在」の側に留まることができた。陽毬は、まさに存在と非存在の境界線上(存在できる命と存在できない命の分岐のライン)にあるキャラクターだ。だからこそ陽毬は、冒頭で死に、死んだにもかかわらずわけのわからない力によって、あたかも生きているかのように振る舞わされている「ゾンビ」として描かれる。
「ピングドラム」は最後には、陽毬と苹果とを(というか、「テロの起こらなかった世界」を)、非存在(可能性)の領域から存在の領域へと押し上げるために、冠葉と晶馬とが非存在の領域へと沈んでいく。つまり「ピングドラム」でも、存在と非存在との「分岐のライン」が重要な問題となっている。
しかしここで、「分岐のライン」が重要であるのと同じくらいに、存在と非存在とが「等価」であるということも重要なのだと思う。冠葉と晶馬の行為はたんなる自己犠牲ではなく、自ら非存在へと埋没していこうとするその行為自体が、存在と非存在との等価性を証明するものだと言えると思う。「ピングドラム」において愛とは、存在するものを存在の側に留めようとすること(この意味での愛は「分岐のライン」にかかわるものだ)であると同時に、より根源的なものとして、存在と非存在との「等価性」を肯定しようとすることだと思われる。
このようなことがらについて、『さらざんまい』はどのように切り込んでくるのだろうか。