●『輪るピングドラム』最終回。素晴らしかった。納得できる終わり方。現実にはそんなことはありえなかったし、そして、それを思い出すことも決してできないが、しかし確かに存在する「ある記憶」に支えられることで、人は生きている。ある意味「夢オチ」とも言える、すべては無かった、と同時に、あった、という形で作品が閉じられる。いや、すべてが実在したからこそ、「すべては無かった」と言えるこの世界が残された。冠葉と晶馬が実在し、彼らが自らの存在を全うしたからこそ、彼らの痕跡はこの世界からきれいに消えることができた(この消滅は積極的な消滅であり、こどもブロイラーによる透明化とは異なる)。この作品のすべてが、(逆デジャブとでも言うべき)思い出せない記憶のもつリアリティに賭けられているところが素晴らしい。冠葉と晶馬は消え、ただ(もはや誰の目にも映ることのなくなった)ペンギンだけが残される。誰の目にも映らない、誰からも思い出されることのない記憶としてのペンギンたち。しかし、彼らがこの世界に残されるということは、また再び、まったく別の存在によって、まったく別の形で、冠葉と晶馬が反復され(そして忘れ去られ)るということでもある。ペンギンたちは媒介者が消滅した後も残る媒介作用を促す力であり、ピングドラムとはそのことを言うのではないか。
●現実には起こらなかったし、誰も思い出すことの出来ない記憶を正確に掘り起こすこと。おそらく、あらゆるフィクションのリアリティはそこにあるのではないか。「ウテナ」では、「物語の拘束からの脱出」(トラウマを動力としてトラウマを書き換えてゆく)というニュアンスが強くあったが、「ピングドラム」では、その過程(運命を引き受けることで「運命」の意味を書き換えてゆく)を経ながらもその一歩先にある、失われた(思い出せない)記憶-物語の存在こそが現実を支える、というところにまで至る。前者と後者とでは「物語」の意味が違う。そして最終話でまた「運命」という言葉の意味がかわる。陽毬と苹果は失われた(思い出せない)潜在的な物語-記憶によって繋がっていて、それが(その潜在的な次元での繋がりが)運命と呼ばれる。「ピングドラム」は死と破滅が保留された世界で起こった/起こらなかった潜在的な物語であり、苹果と陽毬をつなぐもの(運命)は世界の表面(前面)からは後退した潜在的世界とそこでの媒介者である冠葉と晶馬だ。
●王子様は消滅し忘れ去られることで自らの存在をまっとうする。しかし冠葉と晶馬は媒介する者であると同時に媒介される者でもある。このようなあり方に最初に到達し、その規範を示したのは苹果であろう。自らを消滅させて桃果を反復しようとすることによって別のステージの自分自身を発見した苹果は、「誰かから選ばれる(愛される)」ことで自分の存在を確認するのではなく、「誰かを選ぶ(愛する)」ことを通じて自分の存在を確認するという次元に至る。「誰かを愛する」ことによって新たなステージの自分を得た苹果は、さらに、その自己をも「誰かを愛する(自らの存在を世界に「与える」)」ことを通じて消滅させようとする。つまりここで苹果によってはじめて、自己を消滅させることによって自己を全うするという次元があらわれる(陽毬のために自己とともに世界をも犠牲にしようとしていた冠葉との微妙な違いに注意)。冠葉と晶馬は、苹果の教えを模倣し、それを陽毬と苹果に返す。あるいは、晶馬が冠葉から与えられたものを冠葉に返すことで、冠葉は苹果の教えに至る。「ピングドラム」では、このような次元がまさに「リンゴ」という比喩的な形象で示されている。序盤から中盤の展開で苹果によってこのような過程が具体的に示されていなければ、最終話での冠葉と晶馬の消滅は抽象的で弱いものになっただろう。
●「ウテナ」のラスト近くで、ウテナが無数の矢に射られ貫かれるイメージがある。しかし「ピングドラム」の陽毬は、無数の砕けた鏡の破片のなかを、傷つきながらも自ら冠葉の方へと歩いて行く。このイメージの違いは重要だと思う。
●「ウテナ」ではどうしても、ウテナが行動する(説得する)主体で、アンシーが説得され、覚醒が待たれる(謎としての)客体という構図があった。しかし「ピングドラム」では、最終話に至って、主要な人物すべてが、説得し、説得されることで相互に変化する存在となり、その相互作用によって世界の様相が動いてゆく。「ウテナ」では乗り越えられるものとしてあった複数の物語たちが、「ピングドラム」では相互に反映し合って互いを変化させてゆくものとなる。「与えられる」ことで変化した人物が、自ら「与える」者としてまた自己を変化させてゆく。その連鎖は、「与える」ことの意味まで変化させてゆく(冠葉的贈与から苹果的贈与へ)。最後まで覚醒しなかった晶馬さえも、最後に、冠葉から与えられたものを冠葉に、苹果から与えられたものを苹果に返すことで、世界に大きく介入することとなる。サネトシという「悪者」がいて、彼が世界を破滅へと向かわせるのではなく、サネトシという「呪い」を起動させるのも、それを乗り越えてゆくのも、登場人物たちの相互作用(相互贈与)とその進展(贈与の質的変化)なのだ。