●DVDで『ヒアアフター』を観たのだが、観ている間ずっと、この作品はどこへ向かおうとしているのか、イーストウッドは何をやろうとしているのか、ということが掴めなくて、ふわふわした感じで観ていて(それは必ずしもつまらないということではないけど)、『未知との遭遇』みたいな結末のつけ方だったら嫌だなあと思ったりもしたのだが、最後の最後に近くなって、マット・デイモンが少年の死んだ双子の兄についての霊視をする場面に至ってようやく、ああ、これは「向こう側」の話じゃなくて「こちら側」の話なんだ、と腑に落ちた。
臨死体験によって政治のことなどどうでもよくなって「こちら側」で上手くいかなくなったジャーナリストと、人には見えないものが見えてしまうことで「こちら側」で上手くやれない霊能者と、双子の兄の死によって「こちら側」になじめなくなった少年という三つの(「こちら側」では)孤立した流れが、最後に出会うことで、互いが互いを媒介して、「こちら側」でもなんとかいい感じになりそうな兆候が見えてきた、というところで映画が終わる。とはいえ、霊能者とジャーナリストの出会いはいかにもとってつけたようなハッピーエンドなので、重要なのは霊能者と少年の出会いだろう。
死者の声を聞く霊能者マット・デイモンがふと「お喋りな(早口な、だったかも)子だから聞き取りづらい」みたいなことを口にした瞬間、彼と少年の間で何かが通じ、さらに映画の序盤で描写されていた双子の兄の生前の姿が生き生きと浮かんできて、ああ、この場面に至るために今までの流れのすべてがあったのか、と感じる。この場面で、序盤に描写された兄の姿を「語り直す」マット・デイモンが素晴らしいのだか、しかしここで彼は、「本当に見えていること」を話しているのか、それとも、少年の今後に対する配慮(死んだ兄から自立しろというメッセージ)を加え、いわば脚色した形で話しているのかは微妙なところだ(料理教室で知り合った女性には「見えたこと」をそのまま喋ってしまったことで関係が破綻した)。この時のマット・デイモンは「こちら側」と「あちら側」の中間に位置する、まさに媒介者となって、少年が「こちら側」に踏み止まることが出来るようにふるまっているようにもみえる。つまり、「あちら側」に行き切ってしまうのでもなく、「あちら側」を完全に拒否するのでもなく、「こちら側」と「あちら側」との中間に立つことで、マット・デイモン自身もまた「こちら側」における自らの立ち位置を発見したと言えるのではないか。ジャーナリストも、あちら側についての「本を書き、出版する」という、こちら側的(現世的)行為によって、「こちら側」での位置取りを(ニュースキャスターから著述家へと)仕切り直す。
だから『ヒアアフター』という映画は、あくまで「こちら側」から見られた、「あちら側」への「適切な距離感」についての映画なのだと思った。『ヒアアフター』という映画の演出それ自身が、その適切な距離を実践している。