原美術館の小瀬村真美の作品は、時間を操作する作品としてとても優れていると思った。美術館という場に、「別の時間の流れ」を絶妙に作り出している。それは、作品として「別の時間」を構造化するということだけでなく、観客が美術館を訪れ、作品を見ている「この時間」の感覚と、作品が作り出す「別の時間」との間に、絶妙なズレが生じているという感じだ。美術館のなかで作品を観るという、こちら側のリズムが、作品のリズムによって崩される。それにより、とまどいが生じるのと同時に、作品のリズムに巻込まれもする。作品の時間に巻き取られながらも、そこに完全に同期するわけではない。作品に流れている時間は、こちら側の時間とは「別の時間」であるが、観客は、こちらの時間とそちらの時間との違いを意識する程度には、つまり「こちらの時間」を自然で自明なものとするのではなく、それを対象化し意識する程度には、「別の時間」の方にも巻込まれていることを感じる。
美術館で絵画や彫刻を見ているときの時間の感じや対象との距離感と、映画館で映画を見ているときの時間の感じや没入の感覚との、ちょうど中間のような状態が、作品のもつ独自の時間の感覚によって、観客にもたらされる。それにより、こちら側の時間から、時間の外にある「別の時間」をみているという感覚と同時に、時間の外にある「別の時間」が、こちらの時間を見ているという感覚が生じる。こちら側からあちら側をただ眺めているだけではなく、かといって、あちら側の時間に没入するのでもない、中間的な状態が、「あちら側からこちら側が見られている」という逆向きの視線を意識させ、こちら側の時間、こちら側のリズムを相対化する。
いや、というか、「時間の外にある別の時間を見る」というより、「時間の外から別の時間を見ている」という感覚と言った方がいいのか、それは、こちらからそちらを見るということと同じではなく、それと逆向きの、あちら側の別の時間が、こちら側のこの時間を見ているという視点が同時に意識されることで、はじめて意識される感覚だろうと思う。逆向きの視点が同時に意識されることで、「この時間」から「その時間」を見るのではなく、「時間の外」から「別の時間」を見るという感じになる。こちらでもあちらでもない第三の場に視点が生まれ、別の時間を見ているわたしの視点は、「こちら側」からもズレることになる。「時間の外」という感じは、こちら側の時間があちら側の時間を相対化し、あちら側の時間がこちら側の時間を相対化するという、二重の効果によって生まれると思われる。
つまり、作品を見ている視点は、こちら側にあるのでもあちら側にあるのでもなく、その間に出来る陥没地帯に生じている。作品がつくり出しているのは(「あちら側」の構造化であるというより)、こちら側とあちら側との落差であり、その落差の地点に生じる視点であろう。作品は、あちら側の構造(別の時間の構造)をつくることを通じて、こちら側とあちら側との落差をつくり出し、そこに生じる第三の視点をつくり出している。
https://www.art-it.asia/partners/museum/haramuseum/181694