東京都現代美術館フランシス・アリスがとても面白かった。面白かったけど、閉館一時間前に入場したので全部ちゃんとは観られなかった。改めてもう一度行きたい。
「衝撃」という作品が衝撃的に面白かった。いや、思いつくだけなら誰でも思いつきそうなアイデアなのに、実際に作品として成立したものがすごく面白いというところも面白い。このアイデアをここまでのものにするのがすごい。この作品だけでなく、全体として、コンセプトはシンプルで、特に驚くほどのことはないのだけど、作品にはそれを超える魅力がある感じがした。入口で配られる展覧会ガイドには「衝撃」について「監視カメラ」を暗示しているとか書いてあるけど、「衝撃」が面白いのはありがちな「監視カメラ」的な感じとはまったく異なっているからだと思うのだけど。むしろ、「この世界」そのものに潜在する遍在する無数のカメラが予め埋め込まれていて、そのうちのいくつかのカメラの映像がランダムにネットワークとして繋がれることで顕在化したかのような感触に近いと思う。それは、すべてを俯瞰する神の視点でもないし、限定された個の視点でもなく、偶発的に編まれた(中枢と拡散の中間にあるような)ある一つのネットワークの視点であるかのような感じ(ついでに言えば、ぼくが小説でやりたいのもそういう視点なのだけど)。
●それにしてもこの作品はどうやって撮影しているのだろうか。一つの出来事が九つの違う視点から撮られているのだが、おそらくこの九つのテイクを「同時に」撮影するのは困難だと思うので、リハーサルをして練り込んで、視点ごとに何テイクも撮り直す感じで撮っているのだと思うけど、それにしては、背景の街の様子や雰囲気まで各視点間でかなり正確に再現されている(対応している)ように見えた。いや、そもそもリハーサルとか繰り返しとか言っても、犬と人とのタイミングを考えるとかなり難しそうだ。もしすべての視点を同時に撮影したのだとしたら、これをつくった人の頭のなかで、この出来事(の複雑な交錯)が、どのように組み立てられていたのだろうか(要するに、どういう風に撮影プランをたて、どうやって現場を仕切ったのか)と、その頭のなかの複雑さを想像するとクラクラする。いや、まず、カメラを一体どこにどうやって仕込んでいるのか。あるいは、カメラの位置はどうやって決めているのだろうか。それがすごく不思議だ。
(もしかするとそのあたりの秘密が、「再演」という作品にもあるのかもしれない。)
●展覧会の最後に、この作家についてのドキュメンタリー映画が上映されていたので、もしかしたらそれで「どう撮影されたか」が明かされているのかもしれないけど、時間がなくてそこまで観られなかった。
●一つの出来事(のように見える――が、そうである保証はない――出来事)が、九つの異なる視点(フレームの選び方も絶妙なのだが)から撮影され、その九つの映像の切片が、展覧会場内のバラバラな九か所で(ループして)上映されている、ということは、ぱっと考えるようもずっと複雑なことだ。
まず同一性の問題。ここでは「同じ出来事」を撮影していることが九つの異なる視点を束ねる根拠であるのだけど、実は、九つの異なる視点が互いに対応する交点を多数持つということこそが、そこに撮影されている出来事が同一であるという推測を可能にしているに過ぎない。同一性とはここでは、九つの異なる視点を突き合わせることによって生じている効果であると言える。
ここで九つの異なる視点を突き合わせを可能にするためには、九つの流れを配置するための、「それぞれの流れ」の「外に」ある場所と時間が必要となる(複数の写真を配置するために個々のフレームより大きいアルバムのページのひろがりが必要であるように)。ところで、出来事は時間と空間という器のなかで起こるとすれば、九つの流れのなかで起こる九つの出来事を突き合わせるための地=器には、複数の「時間と空間とのひとまとまり」たちを配置するということなのだから、時間+空間という器よりもう一つ次元が上の器が必要となる。しかし実際は我々はそのような器を想定できないし、知覚できない。よって、九つの流れをある空間、ある時間に限定して切片としなければならなくなる。こうして、ごく狭い範囲(フレーム)で短い流れの九つのループ映像が生まれる。
この時、九つの短い切片を、例えば映画のように一つの流れの時間としてつなげることも出来る。しかしそうすると、(我々は時間+空間より一つ上の次元にいるわけではないので)九つの短い切片は、断絶を含んだ一つの長い流れになってしまうとも言える。あるいは、九つの切片を空間的に横一列に並べて一挙に観るという方法もある。しかし、それ自身「一つの流れ」としてあり一つの時間に拘束される「私の意識」には、九つの流れを同時に観て、それらを突き合わせることは困難だ。
そこで、知覚としてではなく、記憶としてそれらを突き合わせるという方法が浮上する。一定の広がりをもった空間の中に、九つの切片がバラバラに配置される。そしてその九つをめぐる経路の間には、まったく別の経験、別の思考を要請する、別の作品が配置されている。私は、そのような空間的な広がりを、ある一定の時間の流れのなかで経験する。私は、最初は、九つの切片を突き合わせるという意識を持たず、その一つを目にする。そして別の作品をいくつか経験した後、二つ目の切片に行き当たる。そして、これはさっきの出来事を別のアングルから撮ったものだと気付く。つまり、二つ目を目にした時に、結果として一つ目との突き合せ(同一性という効果)が自動的に生じる。そしてしばらくすると三つ目に行き当たり、あっ、まただ、と思い、三つあるなら、もっとあるかもしれないとも思う。このようにして、一つの展覧会を観ることで、九つの切片の突き合わせを結果としてすることになる。その経験は確かに、空間的な配置のなかを一つの時間という流れに沿って経験するという、時間+空間いう形式をもっている。しかし、この「突き合わせ」は頭のなかで、つまり突き合わせを可能にするものは知覚ではなく記憶だと言える。この時、知覚は時間+空間という形式に縛られるが、記憶と想起の織りなすネットワーク(脳の、意識−無意識の回路)は、必ずしもそれに拘束されない、もう一つ上の次元の器たり得ているのではないか。
つまり、この経験は、三次元+時間という感性の形式=器を超えたものとなるのではないか、と。同一性とはこのような、三次元+時間を超えた、分離した複数の系のネットワーク化(相互観照)によって可能になる概念なのではないか、と。それは「同じ」という「違うもの」であり、「違っている」からこそ、「同じ」だと言えるものだ。