●《「ハープとはゆめのほとり鳥の化身です」余命二ヶ月の館長は言う》
《屋上は鳥になるための練習場 部長は屋上に行ったままです》
上の二つは、『ゆめのほとり鳥』(九螺さらら)という本に収録されている短歌だ。
●一つめの歌では、「ハープ」という指示対象(楽器)が「ゆめのほとり鳥」という比喩と結びつけられている。さらに、その二つのイメージを結びつけたのが「余命二ヶ月の館長」による発話だとされる。ここで「館長」は「余命二ヶ月」だと言い切られている。館長は、何かしらの重い病気で余命二ヶ月だと医者から言われているのか、あるいは、歌によって描かれている「現在」からみると、館長がこの発言をしたのは死の二ヶ月前のことだったとふり返られているのか分からない。しかしいずれにしても、「余命二ヶ月」と断言されている以上、館長が医者の判断より短く一ヶ月で亡くなってしまったり、あるいは二ヶ月よりも長く生きたりすることはなく、「余命二ヶ月」は確定されているように感じられる。もし、歌の視点が館長が亡くなるより前の現在進行している時間にとられていたとすると、この断言はあまりに残酷に過ぎる(あるいは、人の判断力を超えている)ように思われる。故に、歌の視点は、館長の死後(事後)であるか、ここで語られている出来事の時間の流れの外にあるように感じられる。「ハープとはゆめのほとり鳥の化身です」と発言する館長は、今、目の前にいるのではない。館長は、過去の存在か、そうでなければ(歌の視点からみれば)虚構的な距離にある存在であろう。比喩を発話する主体が過去、あるいは虚構の存在であれば、館長が発話しているこの場面(歌の内容)そのものもまた、「この歌の話者(の視点)」の現在(今・ここ)からすれば、過去か虚構の出来事となるだろう。
ところで、ハープに比喩として結び付けられている「ゆめのほとり鳥」とは何なのだろう。「ゆめのほとり」にいる鳥であるのならば、それは夢(向こう側)と現実(こちら側)の境界にいて、夢と現実とを隔てつつ、それを繋いでもいる、境界のしるしのようなイメージとしてあるのだろう。ハープという現実的なオブジェクトが、ゆめのほとりにいる鳥に例えられ、かつ、そう例えた主体は、過去かあるいは虚構的な地点にいて、死(彼岸)の気配を強く漂わせている存在である(「余命二ヶ月」という断言・確定が、「館長」という存在を、未来が不確定な現在進行する「生きられる時間」から隔てている)。発話の主体が夢の向こう側にちかい位置にいるので、「ハープとはゆめのほとり鳥の化身です」という言葉は、夢の側の方からもたらされているように感じられる。「ゆめのほとり」にいる非現実的な鳥と、現実的なオブジェクト(ハープ)との結び付きは、「夢」のような場所から(向こう側からの声から)もたらされている。
ただ、館長は、過去あるいは虚構の存在であり、死の近くにいる人物であるとはいえ、あくまで「余命二ヶ月」とされている以上、向こう側に行き切っているわけではない。「ゆめのほとり鳥」が夢のほとりにいるとすれば、「館長」は現実(生)のほとりにいると言える。つまり、夢(死・彼岸)の側から見た「ゆめのほとり鳥」と、現実の側から見た「館長」とは、同じような位置(境界に近い位置)にある。夢の領域と現実の領域を二つの円によって表すとすれば、「鳥」と「館長」は、ベン図で二つの円の重なったところのように同じ位置にあると言うこともできる。
つまりこの歌では、「館長」の発話が、「ハープ」と「ゆめのほとり鳥」という二つのイメージを結びつけ、重ね合わせるのだが、同時に、この歌の構造(「余命二ヶ月」という断言・確定)が、「館長」と「ゆめのほとり鳥」という二つのイメージを重ね合わせてもいる。比喩する主体自身(館長)が、比喩となることで、レベルの異なる二重の比喩が生まれている。さらに、「余命二ヶ月の館長」という断言は、この場面そのものを虚構化している。
だからここでは、「鳥」を「ハーブ」の比喩とする館長の発話があり(オブジェクトレベル)、同時に「館長」が「鳥」の比喩となる歌の構造があり(メタレベル)、さらにそのような「この歌のメタ的な構造」が「歌の出来事(虚構内容)と話者の視点」の関係の比喩にもなっている(メタレベルのメタレベル)。それにより、「余命二ヶ月の館長の視点」が、「この歌の話者の視点」の比喩のように機能することになる。
つまり、「余命二ヶ月の館長」と断言できるこの歌の話者の視点は、現実のほとりの、夢(あるいは死)に近い、夢(死)との境界のあたりにあって、そのような遠い地点からこちら側(現実)を見返してこの歌を詠んでいるように感じられる。死からの、あるいは「事後」からの視点を、この歌はもっていると感じられる。
ここで、比喩するものと比喩されるもの、あるいは夢(死・事後)と現実(生・現在=事前)という二項関係は、ハープ-鳥-館長というよう三項的に連なる比喩になることでメタレベルへとずれ込んで、さらに次の三項へとずれて(鳥-館長-話者)、メタのメタへと入れ子的になって、多重化していく。夢と現実という二項が、様々なレベルで見出される。
●二つ目の歌で言われている「鳥」もまた、一つ目の歌と同様に「ゆめのほとり」に位置する存在だとすれば、「屋上」という場所は、夢のほとりと重なる現実のほとりに近い場所にあり、そうであるからこそ「鳥になるための練習場」であり得るのだろう。
そして今度は、館長ではなく「部長」が、屋上へ行ったままになっている。部長は、屋上で鳥になったのではなく、あくまで未だ「部長」であるはずだが、「行ったまま」で帰ってくる見込みはなさそうだ。余命二ヶ月と確定されていた「館長」に比べれば、「部長」は見失しなわれただけで、まだ帰って来ないときっちり確定したわけではない。とはいえ、「館長」が発話によって自らの存在を(その存在が過去のもの、あるいは虚構のものであっても)主張するのに対し、「部長」はたんに不在でみあたらず、不在でありつづける限りにおいて、鳥に近いが鳥未満の存在となる。
(「部長」が行方不明者であることにより、そこに死の含意は発生するが、それが確定されたものではないことが重要。)
そして歌の話者の視点も、現実のほとりのような遠くから、死や事後の位置から見返してくる視点ではなく、あくまで、今、ここからの視点であるように感じる。今、ここからの、生きられた時間の内側からの視点で語られる以上、「部長」はただ見失われるしかない。一つめの歌では、「鳥」と「館長」は、ベン図の二つの円の重なりによって互いに互いの比喩となるのだが、二つ目の歌では俯瞰的にベン図を眺められる視点はなく、この世からの不在(この世の穴)となることによって、「部長」は、今・ここと、夢のほとりにいる鳥のイメージとの通路となっている。そしてその「穴」が出現するための場所として「屋上」というトポスがある。
●《貫かれ脳がバターになってゆく来世のじぶんがぬるく波立つ》
《夢の中で書き続けている日記ありわたしが読めるのは永眠のあと》
上の二つの歌で、今度は「館長」や「部長」ではない、「わたし」の死が含意されている。あるいは、「わたしの死後」からの事後的な視点が含意されている。一つめの歌では、セックスをしている時のとろけるような快感が、遠くにある何かに伝わるように感じ、その遠くにある何かによって「ぬるく波立つ」感覚として焦点化されることを感じることで、その何かが「来世のわたし」として立ち上がる。そして、その遠くで波立つ何か(来世のわたし)の視点から照り返して眺められている、今・ここのわたしが意識される。
二つ目の歌でも、わたしの生が終わった後からの、事後的な視点が意識されている。しかし、死後のわたしが事後の視点からふり返るのは、今・ここに現実として存在している「わたし」ではなく、夢の中の日記に書かれた、夢の中の「わたし」ということになる。ここでは、今・ここの「わたし」と「永眠のあと」のわたしとは切り離されていて、「永眠のあと」のわたしは、「夢の中」のわたしと同じくらい遠い。逆に言えば、その程度のあやふやな繋がりは感じられている。