●『ゆめのほとり鳥』(九螺さらら)には、昨日の日記で引用した以外にも、気になる歌がいくつかある。
《離陸したとたんはらぺこになったから空中にて鳥の肉を頼む》
《視力検査を待つ列が街をはみ出して街の外が視覚化されてゆく》
《耳鼻科には絶滅種たちの鳴き声が標本のごと残響している》
《公園は散歩のためにある幻公園を出ると散歩が消える》
《引き出しを開けるとばあばが一生かけて集めたこの世の袋》
《おとといの夢をはみ出た白鳥座パンタグラフになり火花散る》
●それらのなかで、ぼくがもっとも強烈に感じたのは下の歌だった。
《「その川は逆因果の川 下流から上流に過去を水に流します」》
過去を「水に流す」という慣用的表現が、川の流れのイメージ、あるいはそれによって表現される時間(継起的因果)の流れのイメージと逆向きにカウンター的にぶつけ合わせるように使われることで、言葉を使うことによってしか成立しないような、不思議で強いイメージをかたちづくっているように感じる。
具象的な川の流れのイメージと、それによって比喩的に表現される因果的で継起的な時間の流れのイメージとに対し、クロスするような方向づけをされて、「水に流す」という慣用表現が使われるので、具象的であることのイメージの力と、慣用的であることの習慣的な力とがぶつかることになるのだけど、二つの「流れ」の方向性の違いはそもそも性質が違うので、ガチでぶつかり合うというよりも、互いにすり抜けるように重なり合うように思われる。「下流から上流に過去を水に流します」という表現によって時間の逆流感がたちあがるのだけど、水に流す=消えるという感覚により、逆流という方向性だけがたちあがって、そこに物質的な抵抗が生じない感じ。
また、歌全体がカギ括弧によってくくられることで、ここで示されている状態が、歌の話者によって語られた(話者によって見られた)場面であるのではなく、はじめからこのような「言葉」として、「説明」として、あるいは「お話」として、他者たちを伝わってきて遠くから届けられたような感じになっている。