●紛失したと思っていたコピーが、けいそうビブリオフィルの連載のための資料の山のなかから発掘された。エリー・デューリングの論文、「持続と同時性---ホワイトヘッドベルクソンにおける時間的パースペクティブと相対論的時間」(「思想」2009年12号)。『ベルクソン物質と記憶』を解剖する』に収録されている「共存と時間の流れ」は、おそらくこれの要約のような感じのものなのだろうと思う。
「思想」2009年12号は、出版社に問い合わせても品切れだし、古本もまったく出回っていないので、神奈川県立図書館までコピーをとりに行った。もう一度行かなきゃいけないかと思っていたので、見つかって助かった。
●メモ。「共存の時間の流れ」では、時間についてカントを引きながら、それが概念ではなく形式であり、感覚的所与ではなく純粋直観であることが指摘される。つまり、時間は過ぎ去らない。時間は流れないが、そのなかにあるすべてのものは流れる、のだと。「時間」は、時間的現象、具体的持続と同等には扱えない、と。時間と持続を分けるのはベルクソンと同じだ。そして、以下のように言われる。
相対性理論によって、「固有時」が局所的で経路依存的な量であることが判明し、有名な「双子のパラドックス」で描かれるように、遅れや「同期はずれ」というものが起る。時空をショートカットできるという言い方もできよう。しかしながら、速度や加速度によって伸びたり縮んだりする不可思議な「時間実態」のごときものなどない。(…)そこには、ある時空構造のなかでなされた時間のさまざまな計測を調停する問題があるにすぎない。》
時間それ自体が過程のなではなく、時間はあらゆる過程の形式で、時間は、個別の対象(持続)を包摂する一般的な名称というより、《ある問題ないしは問題群》の名前なのだとする。そして、時間と結びつけられた「予期の地平」は三つの主な方向を指し示しているとする。それは(1)実体というカテゴリーに従った持続(持続性)、(2)因果性のカテゴリーに従った順序(継起)、(3)相互性(ないし相互作用)のカテゴリーに従った共存(同時性)、だと。そして、この第三の側面(共存・同時性)が強調される。
《(…)カントによって同定された時間の第三の側面つまり共存へと私たちの注意を移すことにある。それは現在と過去の継起ではなくむしろ同時性であって、その意味は私たちが現在と過去の本性の差異を認めたときにはじめて充分に理解される。》
ベルクソンにおいて現在とは「知覚+記憶(現在+過去)」であり、現在とはまったく本性の異なる過去(記憶)の介入がなければ、そもそも「現在」が成り立たない。現在(同時性)とは、そもそも過去と現在との間に「同時性」を立ち上げることで可能になる。
ここで、時間というものがそもそも、複数の異なる運動の比較からしか生まれないことが主張される。
《ある運動(あるいはより一般的にはある一連の生成、例えば一時間あれこれのことをする)を、基準としてとられた別の運動(例えばビートや振動、またはその類のもの)と対照させて描くのでなければ、時計は何をするのだろうか。時間の関係的な説明はこの基礎的な洞察から導き出される。すなわち、物理学的な時間概念を、状況に関係するもろもろの動的な量のあいだの交換率を固定する一種の操作子とみなすわけである。したがって、あたかも時間が[事物の]根底に横たわるある種の性質であるかのように、時間そのものを取り扱うことはできないのである。もろもろの持続を測定することは、いくつかの他の物理学的な変数を比較することなのである。時間は少なくとも二つの固有時の比較から出現する。》
ベルクソンにおいて、現在に過去を介入させて世界に「新しい」局面を開くもの、このテキストにおいて、二つの固有時を比較することで「同時性」を立ち上げるものこそが、ある内的な持続をもつパースペクティブだということになる。
《(…)いかなる「同時に」という概念もないなら、世界線に沿った瞬間の継起はただの順序系列であって、それ以外ではない、ということである。前後関係をその系列に読み込み、経路を有意味なものにするためには、なんらかの独立した正当化が必要になる。》
《ここには何が欠けているのだろうか。答えは極めて単純で、時間に関するパースペクティブである。局所的な時間を遠隔的に「走査(scanning)」できる可能性。(…)必要なのは、意識をもつ観察者の内的な持続が、ある[外界の]過程に向けて自らを投射することで、その過程を空間の中だけでなく時間の中でも展開するとみなせるようになる、そういった類の何らかの展望台なのである。》