●引用、メモ。「同時性」について。「時間的形態としての都市」(エリー・デューリング)より。ここでは、エリー・デューリングの難解な時間論がわりあい分かりやすい形で述べられている。
(これは、2017年4月27日に、法政大学市ヶ谷キャンパスでおこなわれた「エリー・デューリングをかこむ学習と懇談の会」での、エリー・デューリングの講演の原稿を日本語訳したもの。会の出席者に配布されたもののコピーをいただいた。)
《同時性はそれ自体としては、延長の中に並置された物や存在の位置の中に出来合いのものとして与えられているような、空間的なものではないということを見失わないことが決定的に重要です。同時性は持続に従って理解しなければならないのです。》
《同時性とは時間の中で共にあることであり、各瞬間に物がそのまま配置されている空間の中にいることではないのです。》
《持続の直感は通常(非ベルクソン的な意味で)、ローカルな運動や経路(ここからそこ、そこからあそこ…)に結びついた単なる「空間的継起」として与えられています。しかし厳密な意味での時間が意識に対して現れるのは、異なる速度(あるいはリズム)で並行して展開する二つ以上の運動を統括するという問いが提起されている時だけです。これは深遠な定義であり、運動の原初的直観、特に速度についての直観から出発して、時間の概念を同時性の概念に即座に結びつけるものです。》
《(…)時間---時間の形態、時間と呼ばれるこの形態---は、線として(単次元的に)のみ表されるべきではありません。時間は膜でもあるのです。この膜はローカルな出来事と生成を束ね、それらの同時性すなわち出来事や生成が共に起こり展開するという事実に意味を与える膜です。》
《(…)時間は二つの次元を持っています。一方には、言うなれば経度に従う継起の秩序(前もしくは後に起きること)があります。そして他方には、緯度に従う同時性の秩序(「同時に」起きること)があります。(…)「間」に関する磯崎の驚くべき発言はここから理解できます。つまり日本的思考は時空を3+1次元(空間の3つの次元に時間が付け加わる)で考えるのではなく、2+2次元(平面のスクリーンに二つの次元を持つ時間が付け加わる)ということなのです。》
《問題の全ては、継起の秩序と同時性の秩序との間のこのような次元的分節化をいかにして考えればいいのか、という点にあります。》
《アインシュタインがこの基本状況から引き出した印象的な帰結は誰でも聞いたことがあるでしょう。二つの座標(二つの観察者集団)が互いに対して動いている場合(相対的運動)、同じ出来事が一方にとっては同時的であり、他方にとっては同時的ではなくなる、というものです。これが通常、「同時性の相対性」と呼ばれているものです。アインシュタインがここから出した結論は、時間それ自体が相対的である、なぜなら空間のそれぞれ異なる地点で流れた持続はそれ自体、我々がその持続に対して取る視点と相対的だからである、というものでした。》
《言うまでもなく、事態はもっと複雑です。この問題からまず引き出すべきよりリスクの少ない結論は、同時性の概念は瞬間性の概念、すなわち同じ瞬間に生じることを意味するのではないということです。同時性の相対性が相対性理論の文脈において実際に示しているのは、同時であるという概念、そして「今」(「現在」)の概念には、厚みがあるということです。現在は厳密な意味において、点ではありません。「今」は普遍的生成の瞬間的断面(物理学の授業で言う「瞬間t」の断面)ではなく、時空の区域(zone)であり、運動が与える視点に応じて可変的な仕方で切り取られうる、時間・空間的な体積なのです。》
《しかし同時性にいかなる時間的意味を与えるべきなのか、という問題は手付かずのままです。(…)ベルクソンはこの新しい物理学の理論の周囲に積み重なるパラドックスの一部を解消するため、次のことを提案しました。それは瞬間的な点としての出来事同士の同時性の関係ではなく、生成(あるいは彼の言葉では「流れ」)同士の同時性の関係をまず考察することです。》
《(…)短く言うと、瞬間の同時性を流れの同時性に置き換えることは、私たちの習慣的な時間概念の180度の反転であるということです。》
《この点に関しては、すでに引用した槇文彦の結論を付け加えるだけで十分でしょう。実際、彼は次のように書いています。「(…)都市における衰退の恒常的なサイクルに対処することのできる、より繊細な時間概念もまた考えられなければならない」(…)建物自体と(都市よりもゆっくりと年老いる)都市の居住者との間の老朽化の差の問題のために、適切に切り取られた時間概念が必要なのです。「衰退のサイクルは私たちの都市におけるつながりの力となりうる。このことが認知されれば、古い環境の古い建造物を、環境は古いままで、新しい建造物に置き換える機会が得られるはずだ。このような年齢の多様性はそれ自体、ひとつのつながりなのである。」》
《(…)ベルクソンはむしろ生成を、平行的に展開する流れの線を集めた一本の束として考察することを提案するのです。あるいは、大きさも樹齢も異なり、それぞれのリズムで生えてくる木々からなる森として、と言ってもいいですし、つまりは何らかの生物集団として考察するわけです。》
《同時性は同じ瞬間に空間の中で生じる出来事の多様としてではなく、その道の一部で互いに同時的になり、様々な関係に入っていくような生成の線の多様から出発して定義されます。》
《(幾何学の)専門用語で言うと、第一のモデルは生成の(あくまで空間の言葉に翻訳するなら時空間ブロックの)葉層構造(foliation)、それに対して第二のモデルはファイバー束(fibration)を示しています。(…)ファイバー束(緯度)のモデルは時間を、生まれたが早いか次々と過去へ転がり落ちていく現在の層の堆積であるとはもはや考えません。その層は実のところ、空間の断片以外の何ものでもないのです。生成の空間化に対するベルクソンの批判の核心がここにあります。ベルクソンは反対に経験の証となりうる唯一の実在、すなわち同時的な流れの多様という所与から出発して、空間的同時性の時間的生成を提案します。瞬間性とは異なるこの同時性は、時間的な意味で理解しなければなりません。同時性もまた持続するということを認めなければならないのです。私が同時性に「厚みがある」と言ったのはこのことなのです。》
《時間の「額縁を外す」こと。すなわち時間を第四の次元にし、その縁に三次元の空間を瞬間から瞬間へと沿わせるのをやめることは、時間にその柔軟さを取り戻させることになります。時間は生成を膜で覆い、包み込んで束にまとめます。このファイバー束としての時間概念は、様々な仕方で切り取ることのできる流動的な同時性というものを考えることも可能にします。これは常に相対的な計測行為に結びついた単なる人工物ではなく、時間経験の内的次元であるような同時性です。》