●昨日からのつづき。エリー・デューリング「持続と同時性」(「思想」2009年12号)から、ホワイトヘッドによる、ポスト相対論における「同時性」の概念についてのメモ。
●「同時性」とは、「ここ-今」と「そこ-今」とを、何らかの仕方で「共に織りあげる」ことを意味する。
《ホワイトヘッドは、極めて簡潔に、こう記述している。「「時間の期間」という概念は、区別された実体との時間的関係によって知られるだけの、自然における実体の感覚-覚知のなかでの開示を表している」。このことの例は、(時計や惑星の運動のような)周期的メカニズムのある種の特徴と、それ自身の活動性の際立った位相との間で反復された一致であろう。》
《次のステップは、隔たった出来事の同時性を規定するための、(局所的な基礎のもとで)このように規定された時間の期間と(遠くはなれた場所での)ほかの時間の期間との比較を含意するだろう。(…)アインシュタインは、光信号を利用しながら、静止状態もしくは相対的運動のなかで、時計を共有化するための手続きを考案している。》
《「場所」という剝きだしの観念は、ある実体が知られるのは、それがほかの区別された実体と空間的に連関することによってのみであるということを意味するのとまさに同様に、「時間」や「時間の期間」という剝きだしの観念は、ある実体が知られるのは、それがほかの区別された実体---私の直接的な環境のなかでの対象や、私自身の身体の有機的な活動といったもの---と時間的に連関することによってのみであるということを意味している。》
《しかし、(…)こうした手続きが、詳述されるべき同時性の局所的意味を最初から前提していることは容易く見てとれる。アインシュタインはこのことを大変よく分かっていたが、ひとつの場所における同時性の直接的経験についてのさらなる哲学的意義を探求する必要は彼にはなかった。それに対しホワイトヘッドは、経験のいっそう深い統一性を明らかにするために、そこから始めなければならないと信じているのである。》
●「同時性」の現-概念
《時間と空間が、経験が関係づけられる二つの「次元」として分離される以前でさえ、「時間の期間による場所の特徴」を識別する感覚というものが存在している。これはホワイトヘッドが(少なくとも『自然と言う概念』において)アインシュタイン=ミンコフスキー的な瞬時的「点-出来事」とは異なった「出来事」によって意味しているものである。同時性が根を張っているのはまさにここである。》
《われわれ自身の向こう側に延長する宇宙があり、それは、たとえそのすべての部分がはっきり知覚されているのではなくとも、何らかの仕方で直接的にこの感覚へと現前しているのである。経験のこの特徴は、同時性の現-概念を準備する。》
《(ホワイトヘッドからの引用)区別された出来事を含む自然総体の同時性は、その自然の背景と、知覚しつつある出来事との特別な関係である。それはそれ自身、総体の部分である。こうした完全な自然の総体が「持続」と呼ばれる。》
《こうした関係は、時間の期間と時間系列とのあいだに、いかなる一致も対応も関与させない。というのも、この時点では、期間や系列は、まだ未規定で差異化されていないからである。(…)もし「現在の自然の全体性」と「瞬時における自然」との同一視を避けるならば、与えられているものは、「区別のために現前している全自然」や、「現在の自然の全体性であるひとつの出来事」にすぎないのである。》
《現在のこの原初的な経験は、われわれに、その構造や計量的な特性に対立するような、「時間の織物」の感受をすでに与えている。このことに基づいて、同時性は導入されるのである。》
●「同時性」について
《第一に、同時性は、感覚-覚知の直接的な構成要素というよりもむしろ、概念として導入される。(…)いいかえれば、同時性は出来事のあいだの明確な関係というよりもむしろ、自然の移行の一般的特性を記述するのである。この一般的特性は、さまざまなかたちをとるにもかかわらず、自然の移行が、いわばひとつの断片であるという事実に連関している。》
《第二に、同時性は、持続の内部における限定的要因の役割を演じている。同時性は、自然の総体を感覚-覚知に向けて持続の「同時的継起」へと限定することによって「持続」を定義する。それゆえ、持続は「同時性であるという特性によってのみ限定される、ある自然総体」として再び記述されうる。それに対して同時性は、持続を同時的継起の広がりへと限定する要因として現れる。いいかえれば、持続は「感覚-覚知において開示される本質的要因である同時性によって限定される、自然の具体的な厚切り」なのである。》
《第三に、同時性の関係は、知覚の背景の役割をなす単一の持続の内部に、すべての出来事を束ねるような根本的な結合として働いている。同時性とは、持続の内部にある特定の出来事の一対もしくはクラスのあいだで維持される外的関係であるよりむしろ、知覚者とその持続とのあいだに保持される内的関係である。この点で、同時性の関係は、持続の経験を構成するものとみなされる。》
《同時性理論の役割は、空間と時間の代替的な意味の可能性を保存するという仕方で、これらの次元を接合することにある。それゆえ、同時性の概念は「時間における」空間の観念にも、二つの時間系列のあいだの関係の観念にも還元されない。》
●同一性、持続、自然の移行(過程としての自然)
《(…)ホワイトヘッドは、直接的な感覚-覚知そのものの内部にある、相関的ではあれ対立している傾向の重要性を強調する。時間はたんに移行するのではない。それは空間を越えて延長し、さまざまな角度から空間を横切っていくといってもよい。そこにこそ、測定可能な時間の、われわれになじみのある系列的概念の起源が存在するのである。というのも、自然の移行とは、「延長と結合した自然において発生する場合を除いては計測不可能」だからだ。》
《(…)同時性と持続という語は、過程としての自然というその本質的特徴のひとつを思弁的に証明する[ために使われる]ものである。その語は、自然の「延長」の二重の特徴を表現している。すなわち、結合と移行、越えて延長する事(extending over)と向こう側に延長すること(extending beyond)である。それが明らかにする事実とは、自然はそれ自身を共に保持していながら「動きつつある」ということ、そして開かれた全体性として内在と超越とを共に受け入れ、自らの内にその意向を保持しながら、移行によって自らの向こう側にまで同時に延長するということである。「空間」と「時間」は、持続の経験の中に期限があるこの二重の運動をほとんど伝えない。しかし、時間と空間は共に、ホワイトヘッドの同時性概念によってかくも明確に捉えられる統一性の内部で、このようないっそう根本的な二重性から帰結するのである。》
●双子のパラドックスについて。これについては、あまりよく分からなかった。
《(…)双子のパラドックスは、絶対的な時間や空間という考えにわれわれがつねに依存していることから生じる一種の混乱を分かりやすく示してくれる。(…)双子の「同時存在的」な時空的軌道の直観を展開しようと試みるとき、どのような空間的背景をわれわれは当然とみなしているのだろうか。》
《運動のさまざまな状況のなかで、空間と時間はさまざまな意味をもっている。ひとつの時間系の瞬間は、ほかの時間系の瞬間とは異なっている。ひとつの時間系の恒常的な点は、ほかの時間系の恒常的な点とは異なっている。だから、ひとつの時間系の恒常的な空間は、ほかの時間系の恒常的な空間とは区別されるのだ。》
《相対性のパラドックスは、われわれが時間系を変化させるとき、時間の意味や空間の意味、そして(恒常的と考えられる)空間の点の意味を変化させてしまうことに、われわれが気づいていないという事実から生じている。》