2019-09-09

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明数)、第三章「社会とは何か」より。その二(昨日からのつづき)。

●モノと権力

《連関の社会学にとって新しいのは(…)モノが、(…)社会を覆う権力、甚大な非対称性、圧倒的な権力の行使を説明するものとして光が当てられることだ。》

《ラトゥールの発想は、権力を「特定の個人/集団の自らの意図に基づいて他者を強制させる力」ではなく、「ひとつの点から他の点への関係があるところならどこにでも発生」するものとして捉えるものであり、私たちがネットワークに特定の仕方で連なる限りにおいて特定の非対称性が生じるのであるから「私たちは皆、自分たちの身体の中に権力をもっている」ことになるという点で、ミシェル・フーコーの権力論や装置(Dispositif)概念に極めて親和的である。ただし、「私たち」のなかに人間以外の存在をフーコーよりも明示的にカウントし、「身体」を「関係性」に拡張する点に違いがある。》

《(…)自宅でトウモロコシをひくことを禁じた村長のふるまいが「権力の行使」だと言えるとして、その力は、村長の禁令が、村人Aや風車や吹きすさぶ風やトウモロコシや粉ひき職人等と特定の仕方で結びつく限りで作用する。》

《権力を「特定の個人/集団が自らの意図に基づいて他者を強制させる力」として捉える常識的な見解は、膨大な人間以外の存在者が既に仲介項に変換されていることを前提にしている。だからこそ、実践においては無数の媒介項の関わりあいによって生じる権力作用が、個人間や集団間の関係性に還元されてしまう。これに対して、人間以外の存在者を「一人前のアクター」として捉えるANTは、「権力を行使する主体と権力を行使される客体」という構図自体が生みだされるプロセスの精査と再編を可能にするのである。》

《ANTの研究蓄積を通じて、モノの活動を可視化するための様々な手法が練り上げられてきた。》

《科学者の実験室やエンジニアの設計室で生じているイノベーションに注目すれば、VFL開発における触媒の汚染のような媒介項の働きが見えてくる。伝統的な技術や道具であっても、技能拾得の初期段階など、それに馴染みのない者が関わりはじめる時には人間と非人間の媒介項同士の関わりが前面化する。》

《モノがすっかり後景に退いているように見える時にもまた、歴史的資料を用いた技術史的研究によって、仲介項へと変換される前の働きを追跡できる。SFや思考実験やアートといった回路に訴えることで、今日では堅固な仲介項であるモノが人間と流動的に結びつく状況をフィクショナルに作り出すこともできる》。

《もっとも重要なのは、事故や故障や災害やリスク管理といった局面において、人間による制御を超えたモノの働きが可視化されることである。(…)「安心・安全」が損なわれる状況にこそ、私たちと諸アクターの媒介項同士としての基礎的な関わりあいが現れる。》

●人間は自分たち自身で存在しているわけではない

《私たちが常に生成しているのであれば、私たちが非人間と結びついた「ハイブリッド」や「サイボーグ」であること自体は特筆すべきものではない。「非人間への生成」において重要なのは、不変の「人間」なるものに人間以外の存在者が付け加える新奇な何かではなく、両者の結びつきが一般的な人間の有様を生みだしていくプロセスにおいてその度毎に見失われるものである。換言すれば、私たちを特定の仕方で世界に外在する「私たち=人間」たらしめている非人間的諸アクターの内在的な関係性をいかに捉えるかが問題なのである。》

《(…)人間以外の存在者をアクターとして捉えることは、「人間は自分たち自身で存在しているわけではない」ことに目を向けることに他ならない。》

《世界に外在する私たち=人間の有様が、私たちが非人間的存在者と共に内在する異種混交的なアソシエーションの派生的な効果にすぎないのであれば、前者が構成する「社会的なもの」もまた後者の一つの現れにすぎないことになる。人間と非人間とを含む異種混交的な諸関係の動態を、ラトゥールは「社会」に代わって「集合体」(Collective)という語で呼ぶ。本章冒頭で述べた「社会的実践を社会に還元しない」という奇妙な表現は、集合体を「社会」に還元しない、という仕方で整理されることになる。》

社会学者もまた社会的世界に内在している

《研究者は諸アクターを追跡することで、この世界=アクターネットワークがいかなる仕方で組み立てられているかを学んでいく。そこでは、既存の社会科学において前もって確定できるものとされてきた多くの要素が不確定なものとして把握される。個々のアクターはいかなるグループに属しているのか、いかなる要因が個々の行為を規定しているのか、何が厳然たる事実(Matter of Fact)で何が議論を呼ぶ事実(Matter of Concern)なのか、いかなる関係性が普遍的(グローバル)なものとなり、局所的(ローカル)なものとなりうるのか、何がミクロで何がマクロな次元なのか。諸アクターはこれらの不確定な状況をめぐる論争を常に展開している。研究者は、論争をめぐっていかなる要素がいかに関係づけられ、いかに論争が安定化/不安定化していくのかを追跡することで、グループや要因や事実、グローバル/ローカルやミクロ/マクロなるものがいかに動的に組み立てられているのかを学ぶことができる。》

《研究者もまた、研究という名の下に既存の関係性に取り込まれながら新たな関係性を生みだしていくアクターであり、その働きは、研究対象となる諸アクターと共にこの世界=アクターネットワークがいかなる仕方で組み立てられており、いかなる仕方で組み直されうるのかを探るものとなる。》

●社会を変える

《ラトゥールの議論は、しばしば相対主義的で懐疑論的なものとして受け取られてきた。そうした印象を持つ読者は驚くかもしれないが、彼は『社会的なものを組み直す』において、「社会を変えたいという人を嘲笑することは、研究者としての魂を失ったことを示す確実な印だ」と断じている。》

《しかしながら、「連関の社会学」における社会変革の道筋は、人々の行為を規定する社会構造をより良いものへと変更するプランを、それを専門的に分析できる社会学者が提示するという仕方で構想されるものではない。》

《ラトゥールの議論を素直に敷衍すれば、構造であれ、言説であれ、合意形成であれ、私たち人間に限定された営為は社会(=集合体)を変えるための特権的な拠点とはなりえない、ということになる。集合体を変えるためには、無数の多様な存在者たちとの野放図な媒介項同士の関わりを---そうした関わりの只中において---組み直していかなければならないのである。》

《より多くのより多様な結びつきを辿ることによって、互いに異質で噛み合わない諸アクターが、どうすれば同じ世界(ラトゥールは「共通世界」と呼ぶ)を生きられるかを探ることができる。それはまた、仲介項に囲まれた安心・安全な状態で成立する「人間なるもの」と自らを同一視することを可能な限り止めることを意味する。「人間なるもの」や「社会的なるもの」に依拠して社会変革や社会批判を構想することに慣れた人々にとって、ラトゥールが示す道筋はあまりにも雑然として無秩序で困難なものに見えるかもしれない。だが、私たち人間が「自分たち自身で存在しているわけではない」という発想を徹底することこそが、社会を変えるための遠回りのようで最も近い道筋なのだ。そう彼は論じているのである。》