●HO×RN(小野弘人×西尾玲子)の展覧会のトークイベントのための準備や打ち合わせを通じて、改めて「虚の透明性」という概念の持つ重要性というか、面白さを感じるようになった。コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストの厳密な解釈をやや踏み越えて拡大解釈をするならば、「虚の透明性」という概念によって、近代絵画(マネから抽象表現主義まで)が生み出した非遠近法的な絵画空間の可能性のほとんどを説明できてしまうのではないかとさえ思う。以下は、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによるテキストに引用されている、ジョージ・ケペシュによる「透明性」の定義。
《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》
例えば、これはかなり逸脱した解釈だが、「虚の透明性」を、感覚不可能な高次元の時空を感覚可能な次元に圧縮するることによって生じる「ゆがみ」や「矛盾」のありようから、元の高次元時空の状態を(身体の全てを用いて)再現しようという観者の努力(積極的な意思)によって生じるもの、と考えることができるのではないか。下の図は、四次元空間の立方体を二次元に圧縮して表現したものだが、この図から、本来感覚不可能な「四次元」の時空を何とか感じようとすることで「虚の透明性」が生まれる、と。
(これは、スタインバーグによるものとも、クラウスによるものとも異なる、より普遍的で広がりのある「グリーンバーグによる近代絵画の規定」への批判の原理にもなり得ると思う。)
そしてそれはたんに「過去」を説明するだけでなく、この概念を、例えばエリー・デューリングの時空論に照らして発展させることで、現在進行形の作品や、来たるべき作品のための指針にさえなり得るのではないか、と。
●そしてこのことは、二つの欲望をぼくの中に掻き立てた。一つは、久々に(一時的に眠っていた)近代絵画マニアとしての血が騒ぎ出した、ということ。近代絵画(ベタに、マネ・セザンヌ・ピカソ・マティス)について、マニアックに語りたいという欲望がでてきた。例えばマネの絵がいかに変であるのかを、具体的に一枚一枚の作品を示しながら主張したい。モネならば、誰でも見ればわかるし、見たままの素晴らしさで素晴らしいが(「素晴らしい眼だが、たんに眼にすぎない」とセザンヌは言った)、マネの絵はただ見ただけではその面白さは分からないし、その異様さに気づくことさえ難しいかもしれない。(好き嫌いで言うとどうしてもセザンヌ・マティスになってしまうのだが)近代絵画と言えばまずはマネ(とクールベ)であって、マネが絵画空間上に起こした革命が、そのまま抽象表現主義にまで繋がっていく。では、マネの何が革命的なのかについて、具体的に「ここ(ここがこうなっていいるから、そうなっている)」と言って示したい。
マティスにかんしても、どうしてここがこうなっていて、こうなっていることの何がすごいのか、について、具体的に作品に即して説明したいという気持ちがある。画家の人生とか主張とか、美術史上での意味とかではなく、この画面の上で何が起こっているのか、について。例えば、マティスにはダイナミックに変化し続ける制作過程を写真に撮って残している作品がいくつかあるが、それが決して無限のバリエーション展開ではなく(この点でピカソとマティスはかなり異なる)、そこで何が探られていて、どうして「ここ」が完成地点なのかについて、それを(あくまでぼくの仮説だが)ちゃんと示したい。
でも、そういうことは「西洋美術入門」のような本には驚くほど書かれていない(百メートル先から物に触れようとしているみたいな、あやふやな書き方しかされていない)。それをちゃんと示しておかないと、近代絵画がやってきた達成がなかったことになったまま、過去の、何となく立派だとされるものとして、ふわっと消費されてしまうだけだという感じがある。近代絵画が、その本質が理解されないまま、派手なARコンテンツの(有名かつ著作権フリーである)都合のいい元ネタのようにして搾取されているのをみるのはとても辛い。なので、「入門書が教えてくれない近代絵画入門」のようなことをやりたい、と。
●もう一つは、「虚の透明性」という概念を、二つの矛盾する像(空間)の並立から、それを見る主体の分裂(さらに、その分裂からの再統合のために要請される新たな時空経験)へと拡張して、そこにエリー・デューリングの時空論を通すことで書き換えると、ずっと放置したままになっている「幽体離脱の芸術論」の続きの展望が見えてきそうだ、ということ。そして、それを考えるために重要な実作として、柄沢祐輔さんのs-houseがあり、桂離宮があるなあ、と。それ以外でも重要なヒントとなる建築の実作を、小野さん、西尾さんからいくつか教えていただくことができた。
以下は、エリー・デューリングの講演、「時間の形としての東京:東京のパラドックス」からの引用だが、これを「虚の透明性」の新たな説明と考えてみると、何が生まれるのか。
《(…)時間が意識に対して現れるのは、異なる速度(あるいはリズム)で並行して展開する二つ以上の運動を一元化するという問いが想起される時だけである。》