⚫︎「透明性―虚と実」(コーリン・ロウ、ロバート・スラツキイ)を改めて読み返している。この論文ではまず、いくつかの絵画作品がペアとして比較されて、実の透明性と虚の透明性の違いが実例として示される。ざっくりと言えば、実の透明性とは、半透明な層をいくつか重ね合わせて、いわば「造形的多義性」のような状態が作られているのだが、各層が透明なので、その多義性が(風景画における、前景、中景、後景のように)一望できる。ただ、構造が複雑になれば、必ずしも「一望できる」というわけではないが、基本構造としてはそうなっている、と。対して虚の透明性は、レジェの作品について《切れ切れの市松格子》と表現されるように、最もわかりやすい例は市松模様だろう。市松模様は、黒を図として見るか白を図として見るかで視覚的状態が反転するのだが、知覚的には両者は矛盾していて両方を同時に見ることができない。かつ、黒を図とする状態と白を図とする状態とが構造的に拮抗していて、両方同時に見ることが出来ないが、複数の矛盾する状態が「構造的に拮抗している」ことは目で見て感じることができる(さらに、実の透明性では、どうしても画面内で強い部分と弱い部分のばらつきができてしまうが、市松模様であればすべての部分が「同じ強さ」を持つ)。
ここで、両立しえないものが両立していることを感じた「見る者」において、その矛盾状態を多次元的に解消しようとして現れる知覚(相入れないものが多次元的に重ね合わせられている状態の知覚)が、虚の透明性だろう。
(虚の透明性は、不透明であることによって生まれる透明性だ。)
まず絵画が、次いで建築が検討されるのだが、その間に、ピカソの「アルルの女」(絵画)とグロピウスによる「バウハウスの工房棟」(建築)とが比較されるところがある。バウハウスは、建築における実の透明性の代表的な作例なのだが、ここで面白いのは、「アルルの女」が「バウハウスの工房棟」と共通した実の透明来の要素を持ちつつも、虚の透明性の要素も持つ、中間的(というか両儀的)な作例として出されていることだ。
ただし、「アルルの女」については、本に載っている粗い図版だけでは何を言いたいのかほぼわからない。論文には1911-12年の作品と書かれているだけで、どこの美術館が収蔵する作品なのかも書かれていないし、ネットで検索しても良い画像がなかなか見つからない。だけど、去年、HOxRN(小野弘人・西尾玲子)の展覧会のイベントに参加するときに送ってもらった資料の中に「アルルの女」の画像があって、それを見て初めて、ああ、こういうことなのかもなあ、と思った。下の画像がそれだ。
「アルルの女」について論文では次のように書かれている。
《ピカソの「アルルの女」は、(…)重なり合った面の透明性が極めて明白に表現されている。ここでピカソはセルロイドのような何枚もの面を描き出し鑑賞者はこの透明な面を通して見ることに感興をおぼえる。この感興はバウハウスの工房棟を見る場合に覚えるものに相通じるに違いない。どちらの場合にも素材の透明性が認められる。しかしピカソの絵には横に広がった空間構成の中に大小の形態を錯綜させ、多義的解釈の限りない可能性を生み出している。『アルルの女』はケペッシュが透明性の特性と考えた変動する曖昧な意味を帯びている。》
ここで《変動する曖昧な意味》とは、たとえば市松模様が「黒が図」の状態と「白が図」の状態を行き来する(振動する)ということで、虚の透明性の特徴である。つまり、実の透明性の特徴と同時に虚の透明性の特徴も持っているということだが、ただしその根拠となる、《横に広がった空間構成の中に大小の形態を錯綜させ》という表現が、何を言っているのかテキストだけではよくわからない。
画像を見てみると、《セルロイドのような何枚もの面》と表現されているのはおそらく白い絵の具の使い方によるものだと言えると思う。ここでピカソは、白いキャンバスに下塗りとして半透明の焦茶色の絵の具を塗った上に、主に白い絵の具を使って描いている。白い絵の具は、不透明に厚く塗られた部分から、ほぼ透明に近く、ごくごく薄く塗られた部分までの、いくつかの段階のグラデーションをもって描かれる。この白の透明度のグラデーションによって、セルロイドが重ね合わされたような「実の透明性」の効果が生まれている。
(ここでは二つの顔が、実の透明性的に重ね合わせられている。)
しかし同時にここでは、白い絵の具がまったく塗られていない、露呈している「下地そのままの部分」が、不透明な平面として立ち上がってきて、白い絵の具のグラデーションによる「実の透明性」の構造に抗して、自らの存在を主張しているようにも見える(そして、そのように見ると、最も厚く塗られた白の部分も、白の不透明な平面に見えてくる)。つまりこの絵では、下地の茶色が、実の透明性の構造を支えると同時に、それに抵抗してもいる。このような解釈は、《横に広がった空間構成の中に大小の形態を錯綜させ》という文言と正確には一致しないが、下地が、最も下、最も奥にあるという「実の透明性」の性質と、下地が最も前面にあり、かつ、《セルロイドのような何枚もの面》を重ねる構造をおびやかしているという「虚の透明性」の性質とが同居しているという点で、コーリン・ロウとロバート・スラツキイの見方と基本的には一致しているのではないかと思う。
そして改めて、ピカソの絵の面白さと、実の透明性と虚の透明性とが同居する可能性について考える。