2023/01/07

田中純による磯崎新論をチェックしようと「群像」のバックナンバーを引っ張り出してきて並べたら、結構すごい感じになった(2022年1月号から、2023年2月号まで)。

●9日のトークのために改めて「透明性 虚と実」を読み返す。長島明夫さんがツイッターで、このテキストで参照されている絵画作品の画像を集めたブログへのリンクを貼ってくれていて、本に載っている粗いモノクロ図版だけでは何を言っているのかよく分からないと思うが、このブログの画像をみると、「虚の透明性」という語で何を示そうとしているのかが、かなり分かりやすくなるのではないかと思った。

下の画像は本の図版と上記リンク先のブログのスクショの比較だが、本の図版では、ほぼ同じような絵に見えてピカソとブラックの違いなど全然分からないが、ブログの画像を見れば分かりやすいのではないか(図版とスクショとで、ピカソとブラックの並びが左右逆になっている)。

ピカソの絵では、人物はキュビズム的に分解されてはいるが、人物と背景とがはっきり分離されていて、前景と後景という空間構造は伝統的な絵画と何も変わらない。一方、ブラックの絵は、人物と背景が入り混じっていて分離できず、一見、空間が平板化して見えるが、前に出てくる空間と後ろへ下がる空間とを一望で捉えることが出来ないように、前後関係が部分部分で矛盾するように組み立てられていて、それによって生まれるズレ(食い違い)や、諸部分間の細かい振幅=振動(押し合いへし合い)などによって、伝統的な(三次元空間を表象する)絵画空間とは異なる「(不透明な)深さ」が生まれている。このテキストではそれを「虚の透明性」と呼ぶ。虚の透明性は、不透明であることで生じる透明性だと言ってもいいと思う。

ジョージ・ケペシュによる「(虚の)透明性」の定義。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》