⚫︎町田で会合。今年の一月に、アートトレイスギャラリーでのHOxRN(小野弘人 x 西尾玲子)の展覧会に付随して行われた「虚の透明性」についてのイベントを、なんとか本にできないだろうかと、その時に登壇した小野さん、西尾さん、上田和彦さんと画策していて、リモートでは何度か話し合っているが、実際に会って話した。
小野さん、西尾さんが中心に動いているのだが、当初は、イベントの内容に加筆するという感じで考えていたが、少し方針が変わって、そもそも「虚の透明性」という概念が十分に理解されていない(あまりにも理解されていない)、建築の分野でも妙に間違った形で伝わってしまっているという現状があって、だからまず、現論文をがっつり要約して、その内容を正確に伝えるところから始める必要があるのではないかという話になってきた。
「透明性―虚と実―」(コーリン・ロウ、ロバート・スラツキイ)という論文は有名で、しかもちゃんとした日本語訳があるのに、なんでみんな現論文をリテラルに読まないのだろうと疑問に思うのだが、西尾さんの話を聞く限り、確かに正確には伝わってない感じだ。「根本的なコンフリクト」の発生によってこそ、「虚の透明性を知覚すること」が「主体に対して要請される」という話であるはずのことが、単に諸レイヤー間のズレや食い違い、それに伴う空間の振動のようなものを「虚の透明性」と呼ぶみたいな話になってしまっている、という。しかもそれは、いつもながらのガラパゴスとしての日本だけの問題ではなく、西欧でも、かなり有名な建築史家が、虚の透明性について、曖昧で変な解釈(アインシュタインがどうこう、とか)をしてしまっている、と。
(イベントの時にぼくは、虚の透明性の現代的な拡張解釈のようなことを考えていたのだが、そもそも基本的な「虚の透明性」が理解されていないと、単に「なんか変なことを言っていると人」みたいにしかならない。だからその方針の変化は、確かにその通りだと受け入れられる。)
現論文にも誤解の原因は確かにあって、虚の透明性の説明に、まず最初に(浅い空間、多数のレイヤー=切片のずれや食い違いでできている)キュビズムの絵画を持ってきていることや、「透明性 虚と実 第二部」において、ゲシュタルト心理学のあまりに有名な「横顔か壺か」の図という、分かりやすすぎて返って誤解を招きやすい図を引用してしまったりしていることが、誤解を招きやすい要素としてある。とはいえ、コルビュジエの「ガルシュの邸宅」や「国際連盟本部・プロジェクト」を実際に分析している部分を読めば、レイヤー間のズレや食い違いという話にはならないはずなのに。
超ざっくり言えば、「ガルシュの邸宅」では、ファザードを観た段階では、水平方向に広がる横長の空間が、幾つものレイヤーとして前後に重なっていて、ここではまさに複数のレイヤーのズレや食い違いによる振幅的な(キュビズム的な浅い)空間性が感じられる。そこで、内部空間もまた、同様に水平方向に横長に広がる空間の層として分節化されていると予想するのだが、内部に入ってみると予想に反して、奥に深い縦長の空間の層として分節化されている。「三」のような空間を予測したら「川」のようになっていた。そこで起こる、二つの異なる原理の空間の間のコンフリクトが「虚の透明性」を立ち上げる。
「国際連盟本部・プロジェクト」では、導線としては、人は建物に向かってまっすぐに歩いて近付いていくしかないのだが、視覚的な空間としては、常に横方向の広がりに引っ張られるように計画されている。そこで、「導線・歩く行為・下半身」が感じている空間と、「視覚・目・上半身」が感じている空間が食い違い、コンフリクトが起こる。そこに「虚の透明性」が立ち上がる。
このように、すごくシンプルなことを言っているのだと思う。下の図は『マニエリスムと近代建築』(コーリン・ロウ)からスキャンして加工しました。
↑導線・歩く行為・下半身
↑視覚・目・上半身