2024/02/15

⚫︎以下は、クレメント・グリーンバーグ「「アメリカ型」絵画」からの引用だが、この一節に戦後アメリカ絵画を支配していた決定的なドグマが書き込まれていると思う。

《ニューマン、ロスコ、スティルの絵画の色彩が有している、暗くし明度を抑えた暖かさは、新しい種類の平面性、息づき脈打つ平面性を生み出している。それらの表面は、ドローイングやデザインにおける比較的少数の偶発事によって破壊されて、包み込む効果を持って色彩を発散するが、その効果は大きさそれ自体によって高められる。人は、壁に掛けられた絵画に対してと同じくらいに周りの環境に反応する。しかしそれでも我々は、最後には一枚の絵画としての絵画に反応するのであり、そしてこれらの絵画は最後には、他の全ての絵画と同様、一目見られた時に感じ取られるようなその統一性によって、生きも死にもする。》

支配的なドグマとは、《絵画は最後には(…)一目見られた時に感じ取られるようなその統一性によって、生きも死にもする》という部分だ。このような、作品の一望性というか、絵画の統一性が「一瞥すること」によって捉えられなければならないというドグマは、マイケル・フリードにおいても《瞬時性》というより強い概念となって存在しており、このドグマこそがフリードに「演劇性」や「リテラリズム(ミニマリズム)」を否定させる主な根拠になっている。以下、フリードの「芸術と客体性」からアンソニー・カロの作品について述べたところを引用する。

《人が一種の瞬時性として経験するのは、この連続的で全体的な現在性であり、それはいわば永続するそれ自体の創造に等しい。それはあたかも、もしも人がより限りなく鋭敏でありさえすれば、あらゆるものを見、作品をその深さと豊穣さの全てにおいて経験し、それによって永遠に確信させられるのには限りなく短いたった一瞬で十分な長さであるようだ。》

大仰な言い方だが、実際にはさまざまな角度から時間の経過とともに観るしかないカロの彫刻作品が、あたかも一瞬で一瞥的に捉えられるかのような統合性を持っているということが書かれている。それに対して、リテラリズムの作品は「時間の中で」経験される。そしてこのテキストは、この瞬時性、現在性とは「恩寵」のことなのだという文で閉じられている。

ぼく自身が作品を観る時の経験と照らしても、ここでグリーンバーグやフリードが言っていることは、感覚的にとても腑に落ちる。しかし、ここで、たとえばフリードが「恩寵」と書いているこの感覚を、「一瞥によって感取することができる統一性」と解釈してしまったことが、アメリカ型絵画を結局は貧しくしてしまったのではないかと、現在のぼくは考えている。

これは、統一性、統合性というよりむしろ分裂的な多の経験であり、しかし、分裂しているはずの複数の要素が、一つ高次の時空によって統合されている(並立している)という経験なのではないか。故にそれが(通常の時空の中で感じられる知覚とは異なり)「恩寵」と感じられる。そして、この感覚をより正確に捉えていると思われるのが、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによる「虚の透明性」という概念だ。

⚫︎お知らせ。連続講座「未だ充分に尽くされていない「近代絵画」の可能性について(おさらいとみらい)」の第二回「「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する」を3月23日に行います。

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また、1月20に行われた、第一回「未だ充分に語られていないマティスピカソについて」は、アーカイブ映像があります。

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概要文「虚の透明性/実の透明性」を魔改造する

 

虚の透明性・実の透明性という概念を提示した、コーリン・ロウとロバート・スラツキイによる近代建築にかんする有名な論文「透明性―虚と実」(『マニエリスムと近代建築』所収)は、具体的な作品の分析部分を除けば意外なくらい平明だ。その論旨は、論中で引用されるジョージ・ケペシュによる「透明性」という語の定義によってほぼ要約されると思われる。

 

二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性を想定しなければならない。像には透明性が附与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。(ジョージ・ケペシュ「視覚の言語」)

 

言っていることはわかる。しかしそれは具体的にどのような状態、感覚のことなのだろうか。論文では続いて、透明性のあり方として実と虚の二種類があること、つまり「虚の透明性」があり得ることを示すための導入として、モホリ-ナギが、透明性についてジェイムス・ジョイスの「多重言語膠着」を例に説明していることを紹介している。ただし、「多重言語膠着」という語はモホリ-ナギの造語なので検索しても引っかからない。ここではそれについて『存在論的、郵便的』(東浩紀)を引用しつつみてみたい。東は、ジョイスが『フィネガンズ・ウェイク』に書き込んだ「he war」という一文に注目するデリダについて、次のように書いている。

 

「war」は英語とドイツ語に同時に属する。デリダはこの二重所属を問題とする。この例で注目すべきはまず、その二重所属が綴り字、すなわち w-a-r というエクリチュール(書かれたもの)の連鎖によってのみむ可能になっていることである。実際にそれを発音しようとすれば、私たちは[wˈɔːr](英語)あるいは[vaːr](ドイツ語)としてその所属を定めざるをえない。『グラマトロジーについて』で「音声中心主義」と呼ばれた構造、つまりエクリチュール(文字)からパロール(声)への変換が引き起こす抑圧が、ここではきわめて分かりやすい例で示されている。パロールは二重所属を消去する。(東浩紀存在論的、郵便的』第一章 幽霊に憑かれた哲学)

 

ある文が多様に解釈可能だという意味の「多義性」とは異なる「多数性(二重所属)」を可能にするエクリチュールという概念がここでは問題となっている。「he war」という文-文字(図)には、(声-意味にすると消えてしまう)相入れない二種類の背景(地)が存在する(英語/ドイツ語)。つまり「he war」という文-文字が開くのは、意味の(解釈の)多数性ではなく、背景(時空・意味の場)の多数性なのだ。デリダにおいては一つのエクリチュールが、ケペシュにおいては二つの像が例に挙げられているが、どちらも問題になっているのは、意味や形そのものというより、それが現れ出る母体となる背景(地)の分裂/多数性だ。

 

ある文なりイメージなりが提示されることで、複数の相入れない背景が想定される時、それを受け取る者は、自分の「知覚する行為」でその矛盾を統合することが求められる。そこで「経験する主体」によって半ば強いられて生み出される多次元的知覚(多次元的時空)のことを「透明性」と呼ぶ。このような、(1)地の多数性→主体による統合性→時空の透明性の出現、という流れを透明性の第一段階と考える。しかしここで、多重化された地を統合する主体による働きかけは、必ずしも成功するとは限らない。あるいは、成功したとして、多重的地の統合という高い負荷を要求されている知覚する主体は、その負荷により常に自己の分裂と裏腹の、きわきわの状態にあるはずだ。つまり、透明性の第一段階には、その裏地として、(2)地の多数性→主体による統合性→主体の分裂、というもう一つの側面が付随している。コーリン・ロウとロバート・スラツキイの主張する「透明性」とは、実は透明性の第一段階(多次元的知覚)と第二段階(主体の分裂)という、相入れないはずの二つの状態が拮抗しながらも、振動し交代し合っているという、透明性の第三段階のことを指すのではないかと私は考える。

 

「多次元的知覚(一つの主体)」と「主体の分裂」とが拮抗し、相互が、明滅したり、振動したりするように入れ替わるという透明性の第三段階があるとして、さらにその先の段階として、多次元的知覚(統合)と主体の分裂とが共存可能であるような「一でもあり多でもあるわたし」、あるいは、そのような「わたし」が存立可能であるような時空の出現というものを、透明性の第四段階として考えることができるのではないか。今回の主題となっている「魔改造」された透明性とは、このような透明性の第四段階のことが想定されている。そして、透明性の第四段階は、近代というよりも現代の芸術の問題になる。

(ただしこれは分人主義のようなものとは違う。役割的、キャラクター的なわたしの分裂・多数性のことではなく「存在としてのわたし」という「一」が分裂することが問題となる。分人主義は「意味の多義性」の範疇だろう。)

 

「透明性―虚と実」は建築にかんする論文だが、「虚の透明性/実の透明性」という概念は、建築に限らず近代芸術全般に見出せる重要な特徴だと考えられる。さらに、近代だけではなく、(魔改造することで)現在の、美術や建築に限らない多様な作品について考えるときに、いまなお有効な概念となるはずだ。前回は、ピカソマティスを中心に、近代絵画についてマニアックに掘っていく内容だったが、今回は「虚の透明性/実の透明性」という概念を再検討し、拡張させつつ、映画や演劇、小説なども含めた、現在のさまざまなジャンルの作品についても考えていくことになるだろう。