2024/02/16

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、第四話。今回はキレッキレだった。阿部サダヲのハラスメント問題が、いかにも昭和のオヤジ的なパワハラではなく、典型的に現代の病として浮上するという、この捻りが冴えている(阿部サダヲの驚くべき受容性の高さ、何か指摘されると拍子抜けするほど素直に「そうなの」と納得するし、もうすでに「Z世代」なんていう言葉まで覚えている)。昭和の阿部サダヲSNSに過剰適応するのに対して、現在から昭和末期に行った坂元愛登はスマホのない世界に適応している。また、フェミニストであるはずの吉田羊が、なぜかすんなり昭和末期の生活に馴染んでいるのはちょっとどうかとも思ったが、電話で、自分の将来の夫となる中学生にガチ説教する場面がすごく良かった。フェミニストの面目躍如的な。

この場面の前振りで、下手をすると(コメディの手ぐせみたいにして)「ホモいじり」ギリギリのところをついてきていて、うーんと一瞬体を硬くするのだが、そこから反転して「ホモソ批判」へと展開されるという、この流れと転換の鮮やかさ。しかもこれは上からの批判ではなく、自分の将来の夫に向けた、ガチのメッセージであり、必死の説得だというところが良い。この綱渡り展開にこそ「批評」がある。ただ、ここでの吉田羊のメッセージが、中学時代の井上くんの心を動かしたのだとしたら、過去改変になってしまう恐れもあるが。

(この場面は、クドカン自身の、現在の自分から中学時代の自分へのメッセージみたいな感触もある。)

(追記。この一連の場面の流れについてもう少し補足する。まず、同性愛者を滑稽な存在として扱って笑いをとるみたいな雰囲気になって、これは良くない流れではないかと思っていると、それが一転して、BL好きの拗らせたシスかつ異性愛の男性に潜在するミソジニーを、彼をよく知っている将来の妻が指摘して説教するという流れになっていて、こんな場面を『木更津キャッツアイ』の作家が書くのか、と驚いた。ここで批判されているのは、ミソジニーを拗らせることで男性同性愛者の表象に自己同一化しようとする異性愛シス男性のありようなのだ。異性愛シス男性が、ミソジニー的な心性によって同性愛的表象を消費しようとする様が、ホモセクシャルホモソーシャルを混同しているとして、その前段階の場面にあった、同性愛者を滑稽な存在として笑いを取ろうとする傾向と同様なものとして批判されている。さらに、昭和末期の価値観を持った女性である河合優実を交えた、吉田羊、坂元愛登の三人の掛け合いの絶妙なバランス。)

現在と過去とを並行モンタージュのように対比するというパターンが、前回と今回とで続いたが、今回は前回よりも構築がより緊密だったように思う。

河合優実の80年代ヤンキーっぷりがあまりにリアルで、仕草ひとつひとつ、表情の作り方ひとつひとつにいちいち驚いしてしまうのだが(おそらく、80年代のアイドル映画とかをたくさん観て研究しているのだろう)、それだけでなく、坂元愛登までが、だんだん木村一八みたいに見えてくるようになった。

(ムッチ先輩は「オレの愚か者がギンギラギンにならない」と言うが、近藤真彦が『愚か者』を歌うのは87年だ(物語の世界は86年)。これについては、マッチ信者のムッチ先輩が近藤真彦の未来を先取りしていてさすがだ、くらいに思うべきで、こういう小ネタにまで考証的厳密さを求めるのは間違っているように思う。)

(「カサブランカ・ダンディ」で沢田研二は、歌う前にウイスキーを口に含んで、それをプッと吹き出すのだけど、さすがに吹き出すところは再現されなかった。歌詞そのものよりも、吹き出すしぐさの方が現在ではよりタブーと言えるのかも。ちなみに、「カサブランカ・ダンディ」の歌詞は正確には、「聞き分けのない女の頬を張り倒す」ことで格好がついたのは「ボギーの時代」で、今ではそんなことはできないという内容だ。「あんたの時代は良かった」とか言っているので、ダメはダメなのだが。)