2022/07/27

●Huluで坂元裕二脚本の『anone』を、一話から最終話(十話)まで一気観してしまった。

一気観したということは、それくらい面白いということであるのと同時に、一気観できてしまう程度の密度である、という意味でもある。たとえば、「大豆田とわ子…」や、今やっている『初恋の悪魔』などは、密度が濃いので何話も一気に観ることはとてもできない。一話観終わる度に強い余韻が次の回に行くまでの時間を要求し、反芻を要求する。連続ドラマを観るときに、次の回まで一週間、あいだがあいているということは、一話分を受け止め、考えるための時間として丁度いいように思う。『anone』には、そこまでの密度があるわけではなかった。

一話を観た時には、視聴者の興味を引き付けるためのエグいギミックがてんこ盛りで、うわーっという感じでちょっと引いたのだが、二話、三話とつづくうちに、少しずつマイルドになっていき、いつの間にか「いい話」になっていく。なんというのか、えげつなくエグい部分と、超ほっこり、わちゃわちゃの部分とが、水と油のように、混じり合わないままでマーブル模様をつくっているような、不思議なドラマだった。

なんとも嫌なところをついてくるなあ、というエグい展開だったのに、最終話までくると、本当に悪い奴は一人もいない(途中で、お前のせいで、お前がいることですべてが悪い方向へ進むのだ、という極悪人のようにみえた瑛太でさえ、最終話には「こいつも悪い奴ではなかった…」となる)という、ハッピーエンドとまではいかないが、登場人物のなかで「救い」のない人物は一人もいない(例外は川瀬陽太か…)という感じで終わる。

(川瀬陽太が、「警察に行きたくない、刑務所に行きたくない」と言うと、阿部サダヲが「会社よりはマシかもしれませんよ」と言う。)

おそらく、坂元裕二がやりたいのは、エグい部分というより、ほっこり、わちゃわちゃの部分なのだと思う。間違った出発点、良くない出会いから、良い関係が導かれるという展開は、『カルテット』と共通する。「贋金」という悪い媒介が、社会のなかで居場所のない孤独な人々を結び付け、疑似家族的な関係をつくりだす。贋金という悪い目的は失敗するが、目的を果たす過程でつくられた良い関係は、目的が失敗した後にもつづいていく。おそらくこのあたりに坂元裕二がこだわっている主題があるのだと思った。

良い関係のあり方が問題となっているので、エグいギミックがてんこ盛りで、どんでん返しが仕込まれていたとしても、ドラマ全体としては、嘘つきどんでん返しゲームにはならない。坂元裕二は、このような点にかんして信用できる作家なのだと思った。

(途中で少し疑問を感じたのは、「紙幣」というモノのもつ威力が現在ではかなり低下しているなかで「贋金づくり」というのはとても効率の悪い犯罪で、それを推し進めようとしているのか、元ITベンチャーの社長だった瑛太である、という点だ。ヴェンダースの『夢の果てまでも』の完成版を観た時にも思ったのだが、銀行強盗をして大量の紙幣を強奪して大金持ちになる、ということそれ自体が、物語としても古臭いものになってしまったということだった。お金とはもはやデジタル的な数値で、モノとしての「大量の紙幣」と「お金持ち」のイメージとがあまり結びつかなくなった。しかしそれでもなお、モノとしての完璧な「偽の紙幣」をつくって、それをATMなどを通じて「本物の紙幣」へと変換するという効率の悪い過程が必要なのは、「偽物の関係」が「本物の関係」へと変換されることこそが重要な主題としてあるからなのだろう。瑛太の目的は、再びお金持ちへと復帰することではなく、モノとしての「完璧な偽札」が示している「システムの外」へと向かうことだった。とはいえ、その変換は失敗する。たとえ「偽の関係」だったとしても、それが良いものならば、それはそのままで「良い」のだ。)

(広瀬すずを人質として身代金を要求しようとする川瀬陽太に対して、小林聡美が「昭和の犯罪ですか」とツッコミを入れるのだが、「身代金目的の誘拐」と同様に「偽金づくり」もまた、古くなってしまった犯罪であることは充分に自覚されていて、意識的にやっているのだろう。)

(『カルテット』も『『anone』』も、基底としてあるは『プレーンソング』なのだと思った。住居を提供する人がいて、そこに社会からあぶれたようなあやしい人たちが集まってきて、たのしそうにわちゃわちゃする。)